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hirano関数@2014/8/29 18:33
スニペット「最後」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「最後」です。

 

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充分な腕前で以て壁に描けば、最後の一葉が、決して散らないようになる。それと似たことは身の周りに案外よくある。たとえば、薬を飲むときのプラシーボ効果ということがそうである。たとえば、貨幣が通用するのはなぜかということがそうである。たとえば、こんなことがそうである。

 

からっと揚げる。ゆえに、から揚げである。

 

幼い頃から、有坂和基はそのように認識していた。その拠って来たる源はもはや分からない。母親が冗談半分に教え込んだという可能性だってある。

 

認識というものは時間を経れば経ただけ、確信へと近付く。から揚げは、からっとしていなければならん。からっとしていなければそれは自己証明の放棄であり、から揚げではない。竜田揚げと違うのはその点である。なぜならあれはしっとりしている。これが有坂の確信である。

 

G線上のアリアを多少間違っても演奏会は滞りなく続いて行くように、人生上さもありなんという物事は多少間違っていても人生を送るに支障がない。

 

言葉遣いなどというものはまさしく多少間違っていようがどうでもよろしい種類のことであり、それは、コンピュータとは本質的に異なる人間、人と人とのコミュニケーションにおける大切な曖昧性の発露である。からっと揚げるから、から揚げである。それで平穏無事に世を渡ってゆける。有坂はおよそ五十年間渡って来た。

 

五十年間も生きていれば、唐揚げという表記を一度も見かけないというわけがない。見れば、ふと考え直すこともあるだろうに。

 

だがしかし、そんな程度のことで崩れるようならば確信は確信でない。有坂は確信しているのである。当て字ということがある。倶楽部とは club だが、それを倶に楽しむ部としたのは堂々たる当て字である。それより何より、現実に、から揚げはからっとしている。

 

からっとしているからこそ有坂はから揚げが好きであり、しっとりしている竜田揚げがあまり好きでない。しかしどちらであろうが、勧められればむしゃむしゃ喰って満足している。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

一連のスニペットもまた、これにておしまいです。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/8/28 11:22
スニペット「鱗」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「鱗」です。

 

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スケールのでかい話がある。ぎょっとする話とも言える。それでお察しの通り、魚の鱗が大きいという話である。

 

魚の鱗を気にするのは、人間で言えば、髪の毛を気にするのと同じことと思って差支えなかろう。魚類の鱗が、鳥類の羽毛になったり哺乳類の体毛になったりしたからである。

 

人間が禿げはじめると、何となく残念な印象がある。魚も、ところどころ鱗が剥がれているのでは見て痛々しい。鱗は、整然と揃えるか、さもなくば、なまずのように全く無しとしてしまうに限る。禿げる人間のうちにも、最後までしっかりと禿げて、堂々たる立派な風格のつるっぱげがあるものである。何事も中途半端はよろしくない。

 

愛鱗家という言い方がある。コイ・ラヴァーである。愛鯉家ではいけないのかと思うところだが「あいりか」では語呂が悪いせいだろう。「あいりんか」ならば収まり良く、落着く。斯界の美意識において鱗は極めて重要であるということを示してもいる。

 

錦鯉の鱗がきらめく、愛鱗家は惚れ惚れとして満足そうに目を細める。その愛鱗家がたまたま英国人や米国人ならばコイ・ラヴァーである。スシ、テンプラと同様にこういう特徴的なものは、カープなんて呼ばずに単にコイとするのが相応しい。そうなると、広島東洋コイ、或いは、広島東洋コイコイズということになりかねないが、野球は米国の産物だからカープで良い。

 

先日開催された、熱心なる愛鱗家たちが集う全国品評会に、瞠目すべき錦鯉が出たのである。出品者は錦織弘一という人物で、姓名共に何となく鯉らしく響くのは奇である。むしろその名が無意識下に密かに作用したがために愛鱗家となった可能性さえあろう。

 

錦織氏の鯉は、スケールがでかかった。人々はぎょっとした。

 

当然ながら鱗の大きさとは魚の体格に比例するわけで、錦鯉の鱗は、個体のうちで最も大きくなる部位であっても、おおむね三センチ程度である。それが錦織氏のは、四センチはあろうかと見える。

 

こうした趣味人とは、愛鱗家に限らず一般に、非常に凝縮された、言ってみれば狭い世界で鎬を削り合っている。門外漢にはまったく分からないほど細かい要素に情熱を注ぐ。微細な違いでも、極大化されて受取られる。だから鱗の一センチの違いは、山の如き違いである。

 

錦織氏の周りには、餌を投げられた池の鯉が猛然と集まってどばどばするのとそっくりな様子で、人だかりが出来ていた。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「最後」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/8/27 11:25
スニペット「地面」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「地面」です。

 

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きのこが地面から生えるとついつい思ってしまうが勿論、そんなことは有り得ない。

 

それは西瓜が木の枝に実ることのように滑稽である。地面から出て来るものと言えば、木とか、草とか、さみしい病人の顔とか、大体そんなものである。木の幹や木の根があるから、木の子が出る。

 

土壌というものが必ずしも、きのこにおいては絶対条件ではないということである。しいたけ栽培の様子がまさにそうであるように、根付くべき木が、ぶった斬られていても構わない。

 

その意味で、きのこは、宙に浮いている。地に足が付いてない。だからこそ、あんなにも唐突な、不当な、意表を衝くような、日常逸脱的な形できのこは出るのかも知れない。

 

そんなことを考えていると段々、誰かのことを、きのこに擬えてみたくなって来る。

 

人それぞれ思い浮べる誰かがあるだろう。ひょっとすると、或る種の屈託だか憤懣だかを以て、男性一般をそのような存在として見ている人もあるかも知れない。見た目がきのこ的なる人は、たとえば若い頃のザ・ビートルズのように、大勢いる。しかし内面的精神的にきのこ的なる人もまた大勢いる。

 

彼ら彼女らきのこ人は、この人間社会においてきのこ的に生えているものだから、どうも目立つ。いや、単純に目立つと言うのとは違う。

 

雄孔雀の羽根、錦鯉の緋色の鱗、尖った水晶、そういった華やかな存在に比べればきのこは、まったく見劣りするほど地味だと言うほかない。ベニテングタケのような麗々しいきのこは例外である。

 

きのことは、しめじであり、ひらたけであり、エリンギである。地味だけれども、あんなものがあんな形でぽつねんと出現するという怪奇性において、通俗的な意味におけるのと異なった意味でやはり、目立つ。それは平凡にして奇である。

 

それは神秘である。だが決して聖なる神秘ではない、暗黒魔術的なる神秘である。世話に砕いた口調にすれば、なぜだか気になって仕方ない、といったところでもあろうか。

 

人それぞれに、思い浮べる誰かがあるだろう。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「鱗」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/8/25 10:07
スニペット「都」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「都」です。

 

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メソポタミアの昔から、人は都市を築き、人はどんどん都市に集まった。こうして集まり過ぎた結果が、渋谷ハチ公前広場である。あんまり人が多すぎて、地面よりも人のほうが多いのではないかという有様を呈している。

 

こんなところを待合せの場所に指定するからいけない。布施川進は相手を待合せているのだが、しかしどう考えてもこれは、待合せなどというものではない。ウォーリーを探してみやがれである。母を尋ねて三千世界である。芋洗海岸の失踪事件である。

 

こんなところを待合せの場所に指定するからいけない。再び布施川はそう思うが、何しろ自身もまたこの状況に加担しているのだから文句は言えない。文句は言えずとも、ひとたびハチ公前で待合せたことのある者は、懲り懲りするに違いない。

 

然るになぜいまだに、人が多いのか。

 

それは、待合せに失敗することがないためだろう。これほどまでに凄惨な状況においてもなお、失敗しない。ひとえにそれは携帯電話があるからである。

 

めでたい文明の利器であるがしかし、それならば、どのみち携帯電話を使うのなら、如何なる地点で待合せようとも全く問題ないことになろう。わざわざハチ公前にする意味はないはずである。そうしてこの広場は今日も今日とて、地面よりも人のほうが多い。場がでぜんぶ、隅々まで人で埋まっているのだから、もはや広場と呼ぶことさえ不当である。

 

人々が渋谷ハチ公前で待合せようとするのは、意味がないからこそであるに違いない。布施川はその結論に達した。

 

どこで待合せよっか。ええとじゃあ適当に、ハチ公前で。この「適当に」が肝心である。待合せと来ればついついハチ公と、脊髄反射するのである。「適当に」のために人々は、日本各地から、渋谷の小さな獣の銅像めがけて突進するのである。

 

布施川の目には何やら、ハチ公の像が巨大な存在感を以て見え始めた。それはひょっとすると、メソポタミアの昔、地球史上最初の都市が生まれたときのあの、人々が驚愕の目を見張ったジッグラトの形象であるかも知れなかった。

 

携帯電話がぶるぶるして布施川は現実に引き戻された。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「地面」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載