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hirano関数@2014/7/30 11:42
スニペット「回転」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「回転」です。

 

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雨が降る。傘がくるくるする。

 

人類は、雨に対して、傘を超越する発明をいまだ成し遂げてはいない。合羽はむしむしする。蓑はがさがさする。笠は、かなり理想に近いけれども用のないとき随分とかさばるし、帽子のようにずっと被っているわけにも行かない。折畳み笠というのも聞かないようだ。結局は傘が、それも洋傘が、それもナイロン洋傘が、広く用いられることになる。

 

傘は軽いのが望ましい。番傘とか蛇の目とかいうものは、あれは相当に重たい。京傘なんて、真っ赤に塗られて茶店に差掛けるオブジェとしての役目ばかりの不遇を託っているほどだ。実用性合理性ということなら、やっぱり西洋式に限るらしい。傘は軽くて、しかも丈夫なら言うことはない。

 

傘を開いて道をゆくとき、人は無意識のうちに、傘をくるくるする。独楽を廻すように、錐もみするように、くるくるする。

 

道が混雑しているとか土砂降りとかの状況なら別だがきっと、くるくるする。傘を開けばどうしても、くるくるする。その無意識ぶりは、長電話しながらコードを指に巻きつけるあの無意識行動にも匹敵する。傘が是非とも軽くなくっちゃいけないのは、じつに、この切実なる欲求のためだ。重たい傘はくるくるしづらくて困るから、つい避けられる。

 

回転とは力の源だ。水車も、エンジンも、銀河系も、回転だ。この宇宙原理が滴り落ちて発露するところの形而下現象として、傘は、くるくる廻る。人間が傘をくるくるするのではない、傘は傘であるがゆえに、くるくるするのだ。全くのところあの、開いた傘というものは、何とくるくるするのに適した形であることか!

 

それを傘におけるコギトと看做すこともできるだろう。傘廻る、ゆえに傘ありだ。形而上傘学の認識に立つ限り、必然的に、傘はくるくるせずにはいられない。大地に雨の降る限りは、人が傘を開く限りは、傘はくるくるする宿命にある。

 

雨が止んだ。強い夏空が戻って来た。

 

濡れたばかりのみずみずしい土手道を、小学生の男の子たちが通った。子供たちは、閉じた傘の柄を掴んで勢いよく、野球の三塁コーチよろしく、くるんくるんとぶん廻しながら通って行った。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「茶店」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/29 15:35
スニペット「森羅万象」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「森羅万象」です。

 

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ウルトラマン・ショーは森羅万象みたいである。少なくとも、コチュジャンと宇宙人とが似ている程度には似ている。或いは、ブッシュ大統領とムシューダ人形用との間柄である。

 

それもこれも全ては、滑舌が悪いせいである。

 

一体にそれは生れつきであって、骨格だか口蓋構造だか、仕方ない種類のことに属するのだろうけれども、それにしても如何かと思われる場合があって当人の心掛けを疑いたくもなる。電話口においてそれは殊に、顕著である。それも、どういうものだか中年初老の男性に多いというのはあれは、年齢相応に高い社会的地位を占めるようになって精神的に自己に安住しきっているせいだろうか。

 

ところが、心掛けと言うならじつは、より重要なのは、受信する側のほうである。全くのナンセンスに過ぎないのならばそれだけの話で終る。

 

頭の回転がとても迅く、想像力が豊かで、ちょっとばかり思込みが激しい、という性格の人間が受信側に廻った場合に、そのときにこそ世界は混沌に陥る。

 

それは、混沌ではあるけれども、それゆえにこそ、無限の可能性の拡がる地平である。アームストロング船長の一歩のように、小さくとも偉大なる飛躍をなしてみせることである。猪俣亜沙実にはその才能がある。東京都庁の話をしていたのを豊胸手術の話へと瞬時にして切り変えてみせるくらいは朝飯前である。

 

昨日は、亜沙実が街を歩いていたら通行人が、明朝体にこだわる焼肉屋の噂をしているのがふと耳に入った。通行人は通り過ぎて行った。

 

不思議な表現だが、きっとメニューはもちろん、看板まで明朝体にこだわって、すっきり書いてあるのだろう。確かにああいうものは、妙に勢いが良すぎて読めないくらい筆で書き殴ったような、どれもこれも似たり寄ったりという印象を受けることが多い。そんな中で明朝体とは、なるほど、却って目立つな。女性向けを意識した瀟洒なイメージの店なんだろう、ちょっと行ってみたいな、と亜沙実は考えた。それから、どうでもいいな、と思った。

 

買い物を済ませて家に帰った亜沙実は、冷蔵庫を開けた。備長炭の消臭剤がいつも置いてあるのだが、その見慣れたものが視線の端っこに入って来たときに亜沙実は、何かに思い当ったような気がした。それが何なのだか、ついに分からなかった。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「回転」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/28 10:32
スニペット「おにぎり」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「おにぎり」です。

 

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森羅万象あらゆるものを論争したがるのが人情というもので、ゆえに、目玉焼き論争などということがある。醤油だソースだと論じ合っている。政治論争と目玉焼き論争との違いは、前者が、言い争う人間たちが低俗な言動をしがちであるのに対し、後者は、言い争う話題そのものが低俗である。したがって後者のほうが上品に見える。

 

そこでおにぎり論争であるが、これが勃発した。この類の論争は食堂か酒場か喫茶店かいずれにせよ飲食の場において勃発するのが常なのだが、それが何とも場違いなことに、職場において勃発した。

 

おにぎり論争は目玉焼き論争よりも、広い。三角型か俵型か、具は梅か鰹か、梅のうちでも潰れ梅かカリカリ小梅かと論点が次々に出て来る。うかうかしていると議論が無限に発散してしまう。本件における当座の論点はシーチキンに絞られたらしい。

 

「好き嫌いで述べるならば私はシーチキンを好まぬのである」

 

「むろん個々人の好みは自由である。今は、おにぎりにおけるシーチキンの一般妥当性について話している。しかしこの際、なぜ好まぬかを問うてみることには意義があろう。なぜであるのか」

 

「思うにそれは、シーチキンの問題でない。マヨの問題である」

 

「なるほどである。しかしながらであるが」

 

「待つのである。私の主張はこれからである。ラベルにはシーチキンと書いてあるのである。シーチキンとマヨとの関係は必ずしも論理的必然ではないのにもかかわらずである。世間ではツナマヨ、ツナマヨと称して余りにもツナとマヨとを一蓮托生の如く思い込みすぎである。ツナキムも結構なものであるはずである」

 

「ツナキムとは何であるか、キムチのことであるのか」

 

「然りである」

 

「なるほどである。しかしながら次のような点を閑却してはならぬ。即ち、古より伝わるうめ、おかか、しゃけ並びにこんぶという伝統的おにぎり界に颯爽と降臨したシーチキンは、西洋風の香気を帯びていてこそ、新鮮味を以て受入れられたのである。いわゆるところのミスマッチゆえにこそである。いちご大福の如きである。その新鮮味を根底において支える者は何者か。マヨであるのである」

 

「なるほどである。私は好まぬけれども、確かにマヨの重大性は認めるものである」

 

「私はしたがっておにぎりにおいては、まさしく一般通念の通り、ツナとマヨとは一蓮托生であると看做すものである」

 

「それこそを私は承服しかねるのである。たとえばスパイシーシーチキンでも良いのではないかと存ずるのである」

 

「それは、シーシーと言いたいという動機のみによる発想ではあるまいかと私は疑うものである」

 

「図星である」

 

何しろ言い争いであって実際の言葉遣いの端々はそのまま写すに堪えないから、趣旨のみ抜き出せば、以上のようなことを延々論じ合っていた。コンビニエンスストア企業のオフィスにおける一情景である。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「森羅万象」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/25 12:21
スニペット「藻」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「藻」です。

 

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うちでは味噌汁によく藻を入れる、と言うと何だか珍しく、何だか不味そうだ。

 

ところが、わかめも藻のうちなのは確かであってそれなら改めて言うのも変なほどに普通のことだ。わかめとは藻にして最も藻らしくない、言わば、アンチ藻なのだ。こんぶも同じことで、おにぎりの具、何がいい? 藻。やはりアンチ藻だ。元素記号 Sb のアンチモンではない。

 

子供の頃から清岡久美は、藻には目がないほうだ。おやつに焼きのりをばりばり食べて大人たちの首を傾げさせた、というのが折に触れて母親がよく話してくれるお笑い草の逸話だ。今となってはさすがにそんな気も起きないが、確かに、のりは好きだ。わかめも好きだ。ひじきも好きだ。

 

どうしてこう食用の藻とは、おっさん臭を放つ物ばかりなのだろうという気がするが、つまり、藻が含んでいる栄養分が中高年に男性には欠乏しやすく、それでおっさんはわかめ蕎麦なんか喜んで食べる傾向がある、ということだろうか。そういうことから、久美が如何におっさん的性格を発揮する二十代女性であるかについて話が及んでもいいのだが、そうは行かない。

 

誰が見ても淑やかな、いわゆる女性らしい女性を久美は体現している。ジーンズよりも絶対にスカートのほうが似合う、それもロングスカートが、といったような佇まいだ。食の嗜好から人の性格を推定しようなんて単純思考は、的外れもいいところだ、ということがこれで分かる。唯だ単に久美は、藻が好きなのだ。そこには理屈はない。そこには藻がゆらゆらしている。

 

水族館に行った。久美はいわゆる女性らしい女性を体現しているからして、それが放っておかれることは自然の摂理からしてあるはずもないのであって、わらわらと群がって来るものがある。

 

そこで久美は、胸のうちでそおっと、群がる者どもの中から比較的ましなのを選んで、それから容赦なく厳選して、お出掛けしてみることがある。たまにある。たまにしかない。これは身持ちの良さと言うよりも、久美の高邁な理想主義によることだと見るほうが実情に近い。水族館デートのお相手は啓太と言った。

 

「ねえ、あれ見て。すげえな」

 

「わああ」

 

「これ何だろな」

 

「そうね、変なの。でもきれい」

 

誰もが知るように水族館とは、代名詞と感動詞とばかりが飛び交う空間なのだった。現物は目の前にある。そういうときに人は、代名詞と感動詞としか表現手段を持たないのだ。

 

「…おいしそう」

 

ふと久美は小さく呟いた。それを聞き留めた啓太は、水族館に魚を見に来ておいしそうとか、ベタなギャグじゃねえんだからとか何とか言って、けらけら笑った。

 

啓太のその反応はちょっと単純すぎてベタなのはじつは彼自身のほうなのだった。水族館でゆらめいているのは魚ばかりではない。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「おにぎり」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載