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hirano関数@2014/5/29 10:21
スニペット「控えめ」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「控えめ」です。

 

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塩分控えめな性格というものが、もしもあるとすれば、笹目剛三こそはそのように評するに相応しい人物である。

 

言わずもがなのことだが、塩分控えめな性格と言うのだから、控えめな性格なのではない。

 

実際彼に会ってみれば分かるが到底、控えめな性格なんてものじゃない。声はどうかすると少々うるさいくらいに響くし、眉毛が濃く太いし、酒を好む。もう少しくらい控えめな性格になってみたらどうだと思われるほどである。

 

生活習慣病とは関係がない。医者の忠告を受けて塩分脂肪分を節制しているといった種類の話ではない。もし仮に将来そういう事態が訪れたとしても、笹目がその忠告に従うとは思えない。他人のくせに俺の身体のことなど分かるものかと毒づくような男である。そう毒づいたことはないがいかにも、そう毒づくような気がする。そう言えば彼は何だか毒々しいところがある。尤も、まだ若いから人間が練れていないだけのことかも知れない。彼の年齢は二十で、大学生である。

 

そのように若いのだから、その人物像を事々しく云々するのも不適切とも思える。だがしかし、二十歳を若い若いと言う人々は、自分がごく幼い頃に親戚の大学生のお兄さんお姉さんに接した際に、なんて大人なんだろう、早くあんな大人になりたい、と感じた経験のことなどを忘れている。二十歳とは、相当の人生経験の重みを備えた年齢である。

 

笹目剛三は、塩分控えめな性格である。いったい何を言い表したいのか。その辺りの理解のためには、塩分控えめな料理というものを思い描いて下さればよい。

 

つまり笹目は、いかにもそのような人柄だということである。少なくとも、周囲からするとそう見えるということである。

 

彼は或るとき、こんなことを言った。

 

「車椅子で、渋谷の人混みなんかに来るほうが間違ってるんだよ。邪魔で邪魔で仕方ねえ」

 

これは問題発言である。その発言者にそれなりの信頼があることを前提しない限り、たちまち非難される物言いかと思われる。それは確かにそうなのだが同時に、ならば、その非難を笹目に浴びせる者とは誰であるか、ということがある。

 

車椅子に乗っている本人ではおそらく、なかろう。ではそれ以外の人となると誰か? 誰でもない、ということになりはしまいか。これ即ち、世間の声というものである。

 

汝らのうち罪なき者、石を投げよ。ナザレの大工の息子の教えはこの場合にも当てはまるらしい。雑踏に車椅子では、邪魔になるということもまた正しい。邪魔だと思ってもそれを口に出さないだけである。ならば笹目を非難できない。

 

笹目はそれを言ってしまう。だから塩分控えめな性格だと言うのである。素材の味を、そのまま出している。まる出しにしている。塩をほとんど身にまとわない。程よく味を整えて、穏当に食べられるような者になることができない。できるのかも知れないがおそらく半ば意図的に、しない。

 

こういう人柄の彼を好ましいと感じる人は、たぶん世の中に少ない。人生を数十年間やっている老獪な人からならば、まあ少しは好かれるかも知れない。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「大工」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/5/27 11:19
スニペット「便箋」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「便箋」です。

 

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可愛らしい便箋が売っているのをつい見掛けてしまったから、つい欲しくなってしまったから、つい買ってしまったから、そうである以上は、手紙を書きたい。

 

誰か手紙を書き送れる相手はいないかな。これを、手段と目的との取違えと言う。でもそういうことは、女性にはよくあることだ。なぜなら私にあるから。これを、主観と客観との混同と言う。

 

私は便箋を眺めて愛でている。罫は横書き用に引いてある。

 

テレビとパーソコンとが普及したためだと思うのだけれど、日本語を横書きにして、それに違和感を持つ人は既に絶滅しつつあると思う。実際に手書きするとき、縦書きよりも横書きが書き易いと感じる人が圧倒的多数派に、とっくになっていると思う。

 

どら焼きが戸棚に入っています、母。たとえばそういった気軽なメモを書くとき、あなたは縦書きするだろうか。横書きするだろうか。新聞でも本でも、読むときはまだまだ縦書きなのだけれど、書くときは横書きだ。その使い分けを、私たちは容易くやっている。

 

テレビの影響力が大きいと思う。テレビ番組のあのテロップとか言うあれは、横書きで出る。それを物心つかないうちから見て育っている。老いも若きも幼きも、テレビを見まくっている。私も見まくって育ち、育った後も見まくっている。それで何かの影響がないほうがおかしい。テレビの発明以前と発明後とで比べると、人類の生きる幸せの度合いは全く変っていないのだけれど、テレビ人間が増えはした。

 

それからアメリカ人がコンピュータを発明した。半導体を作るのは日本が世界一かも知れないけれど、それを部品に使うコンピュータ自体は、アメリカから出た。アメリカ人は横書き人種だった。コンピュータは庶民が買えるくらい安く作れるようになった。自然の成行きで、パーソコンで文字を使うときはひたすら横書きになった。ところでパーソコンというのは唯だ単なる私の好みで、大した意味はない。野暮で間抜けで可愛らしいからパーソコンと言う。書く。パーソナルコンピュータを略しているのだから何も間違ってない。

 

縦書きと横書きということについてこんなことを大雑把に考えて私は、それから次に、たとえばこの頭も尻尾もない無意味な考えをそのまま、手紙に書いて送れる、そんな相手が私にいるかな、と考えた。一人いるような気がする。

 

ざっと思ってみると私には、何も用事がないのに電話を掛けられる相手は、五人いる。何も用事がないのに喫茶店に引っ張り出せる相手は、二人いる。何も用事がないのに便箋の手紙を送り付けられる相手は、一人いるような気がする。

 

素直な思いとしては、三分の一人いる、くらいのところだ。四捨五入したらゼロ人になってしまうけれど、けれどゼロじゃない、という感触がある。

 

可愛らしい便箋は目の前にある。電話もメールも軽いのに、手紙となると途端に、重くなってしまうのはどうしてだろう。誰もがそれを一度は考えたことがあるはずだ。なぜなら私にあるから。これを、主観と客観との混同と言う。

 

すみれ、だと思うけれど花を、控えめに典雅に、センス良く綺麗にあしらってある、いい便箋だ。書き上げて封筒に収めるとき、とてもいい気持ちになると思う。でも、何も用事がないのに手紙を送ったら、それを受取った相手はきっと何か大変な用事に違いないと思い、それから、肩透しを喰って落胆したり苛立ったりするのだろう。

 

小さい頃、特に中学校の頃は盛んに、学校の授業中に手紙の交換をやったのを私は思い出す。日本じゅうの、世界じゅうの、女の子はそういう思い出があるに違いない。なぜなら私にあるから。どうしてあのときのあの感じで出来ないのか。どうして、いつしか、気軽な手紙の交感が出来なくなってしまったんだろうか。それが大人になるということなんだろうか。

 

私は四捨五入することにした。相手はゼロ人になった。変な人だと思われるのが厭だ、という穏当な距離感の取り方に、或いはそれは他愛ない恐怖心に、私は性根から囚われてしまっているのだ。便箋の使い道がなくなった。

 

当面はなくなった、だけのことだ。使うときがいつか訪れるかも知れない。むちゃくちゃに誇張して言うと、そういうことを愉しみの一つとして生きて行けるような感じが、その感じが、人生にはあると私は思う。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「控えめ」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/5/23 11:26
スニペット「ステーション」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「ステーション」です。

 

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なぜ文房具がステーショナリーなのだかまるで見当もつかない。なぜそんな、駅みたいに呼ぶのか。船橋耕四郎は、どうも納得が行かないと思っている。

 

気になって辞書を引けば、駅らしいステーショナリーはステーショナリーでまた別に、あるそうだ。駅的なるステーショナリーは形容詞であって、静止とか固定とか常駐とか、何でもどっしり動かないというような意味合いだと言う。それならたいへんよく分かる。駅とはまさにそのような場だ。新橋ステーションという場がどっしりあってそれは動かず、動くのは、そこへやって来る陸蒸気や人々や人力車のほうなのだ。

 

新橋ステーションは、その光栄ある立場を、大正の頃に出現した東京駅に奪われ、新橋は汐留となりまた同時に烏森が新橋となって、往年の新橋ステーションは現在の新橋駅とは別物である、という紆余曲折の動きはあるものの、それは時代の変遷ということであって、駅自身がとことこ動いたわけではない。駅はどっしり動かず、動くのは時代なのだ。

 

そちらのステーショナリーはよく分かる。分からないのが文房具のステーショナリーだ。前者が a で、後者が e だ。そこが違う。或いはそこだけしか違わない。そうしてステーショナリーは文房具である。全くわけが分からない。文房具に限らず便箋をもステーショナリーは含んでいる。文房具と便箋は当然に仲良しだろうから、別にそこに不審はない。しかしステーショナリーは不審である。

 

あんまり不思議がって、ステーショナリーとは何だ、ステーショナリーとは一体どういうことだ、と考えたものだから船橋はつい脳が滑って、文房とは何だ、とまで悩み始めてしまった。何だ文房とは。

 

動物園には動物がいる。植物園には植物が生えている。何も変なことはない。当り前だ。しかし、水族館には水族がいる、となった途端に首をひねることになる。水族って何。少なくとも船橋は、人生を四十年ほど過ごして来て、水族なるものに出会った憶えは一度もない。クジラなら知っている。ジンベエサメも知っている。まぐろはたまに喰う。わかめは日常的に喰う。えびはアレルギーだから決して喰わない。しかし、水族にはとんと馴染みがない。

 

この水族に、文房はよく似ている。房と言うくらいだから部屋で、何か書き物仕事をする部屋というくらいの意味なのだろうが、少なくとも船橋は、そんな部屋に入ったことも、そういう部屋を見たことさえもない。おおそう言えば、物書き業の友人が船橋にはいる。作家として大して有名でもないが、糊口をしのぐ程度の収入はあって物書き一本でやって行けているらしい。立派なものだと思う。

 

その友人の書斎を訪れたことならある。書斎らしい書斎で、ちょっと笑ってしまうほど書斎だった。志賀直哉とか谷崎潤一郎とかいった小説家の写真に見るような、本当にあんな感じで、本がうず高く積み上がっていた。感動のあまり思わず、友人を目の前にして、へえええ作家みたいな書斎じゃないか、と口走ったことを船橋は思い出した。

 

船橋自身は、書斎などという物々しい部屋は持っていない。家族四人、手狭ながらも、格安の値段で確保することに成功した我が家である。書斎なんて贅沢の余地はない。元来その願望は船橋にはない。

 

書斎さえないのだから、文房なんてあるはずもない。寝室で寝具を使うことならある。少なくとも船橋は、毎日毎日、寝ずにはいられない。しかし、文房に座り込んで、文房のための具を取扱った経験は絶無だ。

 

そこまで考えて船橋はハッと我に返った。これはちょっと考え過ぎである。いちいち文房具まで疑っていては、そつなく人生を送ってゆくにおいて支障がある。文房具は構わん。だがしかし、返す返すも、ステーショナリーは納得できない。

 

下の娘の利奈が、上の娘の沙弥と何やらお喋りしている。いま沙弥は高校一年、利奈は小学六年である。利奈は十二歳の女の子、まさにお年頃というお年頃の娘だ。化粧に興味を持ち出したり、芸能人に夢中になったり、やたらに派手派手しい文房具を集めまくったり、するお年頃だ。船橋は、二人の娘のあまりよく聞取れないお喋りを、聞くともなく聞いていた。

 

利奈が「ステショ」なる変な単語を発したのが船橋の耳に飛び込んだ。

 

船橋には、何のことだかすぐに分かった。たった今まで巡らしていたステーショナリーに対する疑いも悩みも、船橋はたちまち放り出してしまって、利奈は可愛いことを言うなあ、と目を細めた。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「便箋」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/5/21 11:36
スニペット「天国」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「天国」です。

 

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天国とはどんな世界だろうか。手当り次第にいろいろな人に訊ねてみた。何しろそれは誰も知らないことである。ゆえに、誰でも気軽に答えることが可能な問いである。

 

重里さんはこんな風に答えてくれた。

 

「天国って、いっぱいあると思うのね。日本人専門の天国とか、キリスト教徒専門の天国とか、イスラム専門の天国とか、共産主義者専門の天国とか、ルワンダのフツ族専門の天国とかね。宗教によって浄土と呼んだりヘヴンと呼んだりするのは、ただ単に呼び方の違いってだけでしょう。そうすると、それって結局、この世にいろんな国があっていろんな文化圏があっていろんな人々が暮していて、それと同じってことになるじゃない。だからね、もし天国に行っても案外、誰もが普通にしているんだろうって思うのね。もう死んじゃってることにも気付かないでね」

 

谷増さんはこんな風に答えてくれた。

 

「私はクリスチャンですから、天国はあるかないかと訊かれたら、ある、とすぐに答えます。どこにあるのかと訊かれたら、神のいらっしゃるところに、と答えます。ずるい答え方に聞こえるかも知れませんけれど、それなら、質問をするほうだって反則みたいなものでしょう。私は神を信じます。天国に行きたいから信じる、といったような筋のことではありません。神が私を信じさせて下さるから、信じるのです」

 

来女木さんはこんな風に答えてくれた。

 

「絵画でも文学でも、天国を題材にした作品はたくさんありますな。キリスト教の天国を念頭に置いて言っているのですがね。私も若い頃、あの小難しいダンテの『神曲』の、地獄篇なんか単純な興味だけでちらりと読んでみて、本当にチラ読みだけで終ったもんですがね。私が察するのはですな、作品を創った人の心情です。信仰心がまずあるのは当然として、作品に取り掛かるでしょう、するとですな、来る日も来る日もそうしていると、天国の実在感が次第に次第に深まるのではありませんかな。四六時中、天国のことばかり考えている訳ですからな。ああした芸術家たちの、頭の中にか、胸の内にか、そんなことはどっちでも構わんが、少なくとも本人にとって、天国は確固として実在するに至ったに違いない、とまあこう思いますな」

 

純浦さんはこんな風に答えてくれた。

 

「やっぱりまず、イスラム圏のテロリストのことを考えてしまいますね。聖なる戦いと信じて、実行すれば天国に行けると信じて、命を棄てるわけでしょう。それが犯罪であるはずがない、勇気ある立派な殉教者という訳です。それで死んでみたら、天国がじつはなかった。それじゃあんまりです。だから、テロとはおよそ最も始末の悪い犯罪ですが、天国とは、そういう種類の犯罪者を収監する大監獄である、と考えてみれば良いんじゃないでしょうか」

 

若海さんはこんな風に答えてくれた。

 

「あたしはもうひたすら単純に、こう思います。天国は、幽霊みたいなものだって。存在しないよりは、存在してくれているほうがずっと面白いって。ただ、それを振りかざして人に迷惑をかける種類の人がいるでしょう。そういう人を見るとつい、あんたが地獄に落ちろって思っちゃう」

 

物野部さんはこんな風に答えてくれた。

 

「天国はこの地上で、たとえば日本で、とっくに実現していると思いますね。これは皮肉ですが。飲み水も食べ物もすぐ手に入り、奴隷労働を強制されることもなく、どうしても暮しに困れば政府が助けてくれて、漫画でもテレビでも何でも娯楽はたっぷり提供されている。例外的な境遇の人はむろんいるでしょう、しかし一般的に言ってです。じつに夢のようじゃありませんか。これが天国に等しい世界でなくて何だ。だとするとですよ、天国に行った人がどんな暮しをしているか、察しが付きます。つまり、これ以上何を望むのかという環境にいるのにもかかわらず、まだ何かを望んで意外に不満らしく、あまり幸せではない」

 

倉知さんはこんな風に答えてくれた。

 

「天の国てえくらいだから、空の上にあるんだろう。空の上にゃ宇宙ステーションがあるって訳だが、その、もっと上だ。だが宇宙に出ちまえば上も下も右左もありゃしねえから、つまり、宇宙の果てってところか。で、宇宙に果てはあるのか、って話になるわな。難しい話は俺は知らん。学者だってよく分からんから研究して、毎日ああだこうだ議論してるんだろう。宇宙に果てはあるのかないのか、そいつは、天国はあるのかないのかって話にそっくりじゃねえか」

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「ステーション」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載