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hirano関数@2014/4/30 11:29
スニペット「舶来」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「舶来」です。

 

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伊庭茂人はカナダに留学することになった。専攻は海洋物理学である。

 

カナダに行くと言うと、友人知人はこぞって羨しがった。そこで、何がどのように羨ましいのかと訊くと、友人知人はこぞって首を傾げて「何か」とか、「いや何か」とか、「だって何か」とか口走った。だから結局、何らの理由なくしてただ、外国というだけで憧憬しているのだろうと察しられた。

 

上等と付くものには「喧嘩」「舶来」それから「お茉莉」がある。喧嘩上等もお茉莉は上等もじつによく分かるが、よく分からないのは舶来上等である。なぜ外国は素敵か。

 

どうしてこう、舶来は上等のように感じるのか。

 

明治維新で西洋から入って来たラムプやステツキやシヤボンばかりでない。その遥か昔には、遣隋使したり遣唐使したりして、せっせと舶来物を運んで来て有り難がった。物質的なことばかりでない。万葉集や古今集よりも、論語や孟子や韓非子、或いは李白、杜甫、白楽天の詩のほうがずっと格が上だった。明治大正の青年は競ってドストヱフスキイを、トルストイを、シヨオペンハウエルを、ギヨオテを読んだ。

 

自国よりも、外国を有り難がる。増上慢に陥らない慎ましさと思えばたいへん結構なことである。昭和期に、軍事的に経済的にそれぞれ一度ずつ、まさしく増上慢に陥ったことはあるけれども、そうした機運は例外的なほうに属する。概して日本人の心は舶来上等である。いっとき攘夷だ攘夷だという叫びが国を騒がせたのは、西洋の威武に怖れをなしての過剰防衛反応に違いない、その心裡はやっぱり舶来上等に根差している。

 

舶来上等、これ即ち島国根性というものだろうか。

 

しかしトンガやフィジーやサモアの人のことを考えてみると、どうも違うように思われる。それは熱帯だからだろうと言うなら、おお、あのイギリスがある。日本と似たような緯度に位置し、日本より狭い島国であり、しかし世界で最上級の格式を備えている。舶来上等のその舶来の、発信源の重要な一角である。

 

島国純粋培養の伊庭は、じきにカナダに行く。海洋は世界中で繋がっているから、海洋の物理の学をやるにおいて取分けカナダが望ましいという道理はない。しかし伊庭はカナダに行く。

 

カナダの大学が、来てもよろしいと言ったからである。カナダの大学がそう言ったのは、伊庭が行きたいと言ったからである。動機の萌芽はごく些細なことである。

 

何か、カナダの海は良さそうな気がする。

 

某教授の論文を拝見してだの研究チームの掲げる思想に共鳴してだのといったことは、全く正直なところ、後付けに過ぎない。或いは手続書類をそつなく仕上げるための言い訳に過ぎない。

 

日本にも海はある。カナダにも海はある。伊庭は、カナダの海は何だか良さそうだと思っている。思い続けて、とうとうカナダの大学に行きたいと言い出した。幸い、来てもよろしいと言われた。

 

伊庭の友人知人のうちの一人が、なぜカナダなのかと訊いたことがあった。油断していた伊庭はつい、首を傾げて「だって何か」と口走った。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「孟子」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/4/28 13:08
スニペット「ポーチ」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「ポーチ」です。

 

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ポーチと聞いただけでは家屋を思い浮かべれば良いのかコスメ用品をごろごろ放り込んだ小鞄を脳裡に描けば良いのか判断に苦しむのだが、そんなことに懊悩するのは日本人くらいのもので、英語使いの連中は、筋肉の舌をうまく使って決して両者を混同することがない。別に優劣の話ではない。

 

日本人にも違いが明瞭になるように書く。すると、家がポルチで、鞄がポウチとなる。

 

可愛らしくて結構ではないかと思われるが、ポウチはともかくポルチは気に喰わぬという人が多いかも知れない。例の厄介な、R音だ。ルとはあまりに大袈裟すぎると言うのだろう。

 

ジャン・ポール・サルトルのサルトルが、サトーに聞こえる。実存主義哲学者サルトルなんておっかない人よりは、佐藤さんのほうがずっと親しみが持ててこれまた結構かと思われるが、あの偉い人を嘲弄するのかと怒る人もあるだろうか。そんなことで怒ってはいけない。そもそも「サルトル」の時点で既にちょっと面白い。

 

実際のところ、彼の思想や言動には、世界じゅうの猿がどっさり絡め取られたのだから申し分ない。元来が、舶来の文物や人は、むやみに大切にされるか、さもなくば、やたらに面白がられるか、どちらかだという極端な境遇に置かれることが多い。

 

そうそう、実存とやらを論じるなら、政治意識を高く持つのも悪くないだろうが、ポーチドエッグを作るのも良い。ここでポーチに話が引き戻される。

 

家がポルチで鞄がポウチ式に行けば、卵をどうとかこうとかするのは、ポアチ、というわけになる。

 

ポアチという単語は、密漁とか不法侵入とか泥のぬかるみとか、何でも「秩序がひっかき回される」というほどの意味合いらしい。ポアチされた鶏卵がポアチドエッグで、つまり何だろう、狼藉たまご。そんな風にでも訳せば良いだろうか。

 

なるほど無造作にポアチされたエッグは、あの肌のつるりときれいな美人のゆで卵とは、全く似ても似付かぬ。乱暴狼藉ばかり働く無頼漢みたいである。あるいは、じつは寝相が酷く悪いところを見られてしまった乱れ髪の(元)美人かも知れない。

 

だから狼藉たまごは、無造作ではない扱い方をしてやる必要がある。ゆらゆら勝手にほっつき歩く奴を、宥めすかして、上手いこと丸め込んでやるような、繊細な手腕が求められる。

 

狼藉たまごを乗せた食パンをかじりながら哲学書を読んでいた西脇良太は、何だか実存ということを理解しかけたような気がした。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「舶来」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/4/25 11:20
スニペット「野暮」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「野暮」です。

 

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「あら彩夏、どこ行くの」

 

「実紗か。ちょっとね」

 

「野暮用?」

 

「えっ何で分かるの」

 

「えっ何でびっくりするの」

 

土曜日の午後三時半、午後三時半なりの人通りで午後三時半なりの賑わい方で賑わう駅前商店街で、半嶺彩夏と平林実紗が出喰わした。

 

彩夏はポーチを肩に掛けている。服装は、夏の入りの頃らしくレース縁で白ブラウスと、ゆるめのプリーツが入った細身のスカート。髪型は、と、その他いろいろのことを、実紗は一瞬で以て見て取る。

 

彩夏もまた同じように、実紗の様子を瞬時に把握している。実紗は、紙袋を手に提げている。つやつやした紙袋には、売る側にとっては重大な意味があるけれども買う側にとっては全くと言ってよいほど無意味な一まとまりの英文字単語が、上品そうなフォントで印刷されている。

 

「だって実紗がいきなり野暮用って言うから。そういうことは普通、本人が言うものでしょう」

 

「他人が言っちゃいかんという法はない」

 

「法はなくとも慣例がある。それにあたし本当に、野暮用でね」

 

「どんな野暮用?」

 

「訊くのは野暮よう」

 

どうも、うら若き女性よりはむしろ中年男性の会話に近い。そして場所は、銀座の路上でもなくデパートの二階三階四階でもなくインテリアショップがうち並ぶ大通り沿いの歩道でもない。じつに雑駁な、ちょっと鮮魚の匂いがする、駅前商店街である。

 

「おデートではないな」

 

「うむ。認めざるを得ん」

 

「もしその格好でデートだったら、彩夏も情けなくなったもんねえって莫迦にしてやるわよ。気合いが感じられないもの全然」

 

「そりゃそうね。実紗は何して来たところなの。野暮用?」

 

「あたしのはいつだって野暮用よう。たとえそれが、オトコに別れ話叩き付けてやる用だとしてもね。で、何で分かるの」

 

「今の彼氏とまだまだ円満だってことが?」

 

「ううん。どこ行くのじゃなくて、何して来たところなのって言ったでしょう。この袋なんか、証拠としては弱いわよ」

 

「中に何が入っているか分からない、から?」

 

「そうそう。タッパーに詰めた梅干しが入っていて、これからどこかにお届けに上がるところなのかも知れない」

 

「タッパーよりは瓶に詰めたほうがいいんじゃない」

 

「梅干しならね。でも違うからいいの。この中身にはタッパーも梅干しも一切使用されておりません」

 

「中身はつまり、非食品添加物だってことね」

 

こんな応酬をぽんぽんやるとは、野暮とは正反対の洒脱振りである。それから二人は手を振って別れて、彩夏は納豆を買いに行き、実紗はレンタル DVD を返却しに行った。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「ポーチ」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/4/24 11:25
スニペット「鶏頭」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「鶏頭」です。

 

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誰もがはっきりと感じているように、鶏頭は、むしろ人頭をいかにも彷彿させる。頭の中身のことである。鶏頭があんなに赤くなくて、淡泊で蛋白な灰色をしていたら一体どうか。

 

そうなると更に連想は及んで、鶏が三歩歩く姿が思い浮かぶ。そういう性能の人頭の持ち主は案外たくさんいるからである。白状するけれども俺がそうだ。

 

記憶力の強い人のことが全く、羨ましい。人は徹底的に不平等に生まれ付くものである。それが家柄のこともあろうし、容貌のこともあろうし、寿命のこともあろうが、俺が深く感じ入るのは脳神経のことである。

 

脳神経は、果たして鍛えることが可能か。どうも可能なような気がするから義務教育ということがあるのだろうが、本当にそうか。俺は疑う。むろん、学習ということは当然認める。知識が増える。経験が蓄えられる。勘が冴える。

 

だがそれは性能の向上と言うよりは、特殊化だろう。ビジネスが上手になれば芸術的センスが喪われる。教養を積めば恋愛について野暮ったくなる。職人の手仕事に熟達すれば人付き合いが駄目になる。といったようなことがないだろうか。あるだろう。

 

何が言いたいのかよく分からなくなった。要するに、頭のいい人が羨ましい。

 

頭のいい人にも早熟型と晩成型があると言うが、それもどうだか、俺には訝しく思える。それは結局、世間に認められるかどうかという水準の話ではないか。本人の能力の良し悪しの話とは次元が一つ、ずれている。

 

ピカソが早熟型、ゴーギャンが晩成型だとして、同じ年齢のときを比べてみてピカソは有能、ゴーギャンは無能というものでもなかろう。始めから才能はあったのに違いない。ただ、評価してくれる人の人数の多寡という差だけがある。まさにゴーギャンの場合、評価して貰えるまでの時期を待つためには死ぬほかなかった。

 

どうも話の筋を見失ってしまった。ええとつまり、頭がいいと言う場合、通例として、芸術家のことはあまり思わないだろう。それよりは、学者。官僚。医者。発明家。そんなところか。

 

高校や大学での俺の知合いには、学者だの官僚だの医者だのになった奴は幾人か、思い当たる。まあ発明家はいない。どいつもこいつも、腹の立つほど頭のいい連中だった。

 

武村は、13×7×54 などという暗算を、一秒間でやってのけた。須輪は、「梅」だの「秋」だの題を与えられれば、古今や新古今の歌を十も二十も並べてみせた。玉乃井は、試験勉強中に何か尋ねられると、何を尋ねられても、ああそれならあの教科書の何ページの説明が分かりやすいと即座に答える特技があった。

 

学生時代を思い出せば懐かしい。そういった優秀な奴らに比べれば俺は、ほとんど落ちこぼれに近い体たらくだった。しかしともあれ試験をやっつけて卒業証書だけは強奪した。

 

学歴なるものは無意味とも有意味とも言える。俺にとっては、有意味なほうに属する。少なくとも、実力を過大評価して下さる方々が周囲に増える。世渡りがしやすくなる。それは悪い気分ではない。

 

そもそも俺は何の話をしていたのだか忘れた。何だっけ。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「野暮」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載