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hirano関数@2014/1/31 11:40
スニペット「宿命」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「宿命」です。

 

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宿敵を探し当て、宿命の対決をすべくの、宿願を果たさんと念じ、宿屋を点々としたりする。そうなるとほとんど宿痾だ。

 

そう言えば、森鴎外が、護持院原の敵討というのを書いている。そこでは宿痾どころか、褒められている。鴎外も褒めているし、封建制度のお上も褒めている。いつだったか読んだとき、俺も褒めたくなった。読めば誰でも褒めたくなると思う。

 

肉親が惨殺された。そのとき、復讐するのが正しいのか。許すのが正しいのか。どちらが人として正しい道なのか、俺にはよく分からない。復讐するならば、地球上から決して戦争は無くならないだろう。許すならば、人間の尊厳を喪うだろう。

 

そうなると、どちらが正しい道なのかという問題自体に、問題がある。問い方そのものに、どこか間違いが潜んでいそうだということになる。

 

ひとつの考え。正しいもヘチマも無い。場合によって、復讐したり、許したりすればよろしい。それは一種のご都合主義だが、たいへん立派なご都合主義だ。少なくとも、世間に通りの良い主義だ。法を司るべき裁判所にだって情状酌量ということがある。世慣れた人々、酸いも甘いも噛み分けた人々は、大概この派だろうと思う。

 

また別の考え。もし仮に、よくよく考えた挙句、どちらが正しいのか判然と悟ったつもりでいるとしても、いざとなれば、どう動くか知れたものではない。人は理性ではなく、感情で動く。したがって、考えても無駄だ。これではヤケクソに近いが、しかし世の中のあらゆる物事は、誠実に考え詰めてゆけばヤケクソに帰着するとも言える。なぜ生きるか。なぜ死ぬか。そんな基本的なことさえ、考え始めると、おちおち生きたり死んだりもしちゃいられん。

 

あるいは、こんな考え。許せ。憎しみが何物をも生まぬこと、それは全く疑う余地がない。だから許せ。どうしても許せないと言うか、だが許せ。それでもなお許せないか。ならば、お前が死ね。宗教家などはたぶん、この辺りに近いのだろうと思う。宗教とは、紛い物も随分あることだし、あまり偉いものとは思えない。しかし、業の連鎖を断ち切ろうとする、その個人的な努力の限りにおいて、敬うべきものだとも思う。

 

やっぱり何だかよく分からなくなった。俺は、詰まらないことをきっかけにして、こんなことを考え込む癖がある。

 

詰まらないことと言うのは、たとえば、腹が痛いとか、酒をちょっと呑み過ぎたとか、可愛い女の子に冷たくされたとか、数秒の差で電車に乗り遅れたとか、布団に入ったのに眠くないとか、まあそんなことだ。そうして、何やら考え込む俺自身について、悪い気分ではない。

 

全く阿呆らしいと思う。爛れた自己愛、酸鼻の極みだと思う。しかし、俺の宿命なんだとでも思うほかない。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「個人的」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/1/30 11:56
スニペット「鰭」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「鰭」です。

 

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みかんを柑橘類と呼んだり、かにを甲殻類と呼んだり、秀吉を猿人類と呼んだりするのと同じように、鰭脚類という言い方があって、あしか、おっとせい、せいうちの眷属のことだが、つまり海中にあっては鰭をひれひれと操って泳ぎ回り、地上にあっては鰭をひれっと踏ん張って身体を引き摺ったり転がったりしている連中を意味する。

 

牛のヒレ肉が旨いのは、比較的に運動負荷の掛からない部位ゆえに肉質が柔らかいためだそうだが、それで考えるとおっとせいの鰭は、人間が指を酷使するように、鰭脚類の鰭たる宿命としてまずどの部位よりも日常的に酷使されているに違いないから、喰って旨いものではなさそうだけれども、おっとせいにしてみれば喰われては迷惑するからそれで良いことになる。

 

いま浜元克博は、何をどう悟ったものか、生まれついた霊長類の身をめでたく解脱して、鰭脚類に進化していた。

 

「想像はつくと思いますが、あんまり激しくばたばたやっても、疲れるだけで意味はありませんからね。それこそ魚になった気持ちで、自然に、水をぐっと抑えてやるような、撫でるような感じで動かすのがコツです。とにかくですね、水中に入ったら、いいですか、焦らず、騒がずです。力を抜いて、ゆったり自然にしているのが一番いいんですよ」

 

とイントラクターの岩森が、浜元たち五人の鰭脚類を等分に見回しながら、悠揚迫らずといったような、のんびり落ち着いた口振りで教えたのだったが、その調子はいかにも鰭脚類らしいところが感じられた。

 

まず手本に飛び込んでみせた鰭脚類を追って、ざぼりざぼりと五つの、どことなく不安そうな水音が、広々とした屋内プール施設の宙空に響いた。

 

浜元は、焦ったり騒いだりした。

 

自分ではしっかり装備しておいたはずの鰭が、じつは思いのほか緩んでいたと見えて、プールに跳び込んだときの衝撃力によって脱げてしまって、気付いたときにはもう浜元は、左半分だけが鰭脚類、右のほうは細い人間の肢を頼りなく曝し、半獣半人の無惨な姿になっていた。

 

水面にひとつ、鰭が、ぽかりと浮いていた。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「宿命」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/1/29 10:01
スニペット「太平洋」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「太平洋」です。

 

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八甲田山中に池があった。藪をかき分けた先にあって、人の往来する道筋からはちっとも見えないが、地元の者は知っている。子供らが釣りをすることもある。その池に「ぬし」がいた。

 

鯉だと言う者がある。いや鮒だと言う者がある。むろん鯰に違いない、ひげを目撃したと言う者がある。それから、なあに、あんなになっちまえば何でもありはしない、ただ化け物だと得意げに云う者がある。

 

それほどたびたび「ぬし」が姿を見せるはずは無いから、UFOという奴をアメリカ人が発明した途端に日本にもUFOが現れるようになったの伝で、尾鰭のたっぷりついた噂に喰い付くだけの者も多いのだろう。そういったことは必ずしも、為にする嘘ではない、聞き込んだ話をつい独り合点に呑込むのである。呑込んで血肉となっていつしか、我あらず信じ込むに到るのである。何しろ「ぬし」だから、尾も鰭も八つや九つたっぷり装着してまだまだ平気かも知れない。

 

だが「ぬし」は実在した。

 

あるとき、酔狂に駆られた若者らが策を練った挙句、六人がかりでついに「ぬし」を獲った。

 

釣ったとは言えない、獲ったと称するほかない。なるべく頑丈に入念に編み上げた網で、よいこらせよいこらせと引き上げたのである。六尺豊かな大男という表現はあるが六尺どころではない、八尺に及ぶほどの、呑舟の魚であった。

 

集まった見物たちは驚愕した。殊に女たちはキャアキャアと怖れをなしてじつは喜んだ。大き過ぎて、村の古老にも漁師にも、誰にも何の魚だか分からなかった。ただ、ひげは無かった。地元の新聞の記事になった。まだテレビやインターネットが無い昔のことで、持ち込む先と言えば新聞である。その記事を保存している家がまだ村には何軒かあるだろうと思われる。

 

この手の話が日本全国にあるはずである。八甲田山にあるなら、槍ヶ岳にもあるだろう、大菩薩峠にもあるだろう、霧島にもあるだろう。それから世界じゅうに、あるはずである。魚は日本にだけ泳ぐものではない。

 

そこで、こういうことを考える。

 

太平洋は広いから、何かが棲んでいる。途方もないものが棲んでいるに違いない。青森県の眇たる池においてさえ、八尺の怪魚である。太平洋の広さは、幾千倍幾万倍に当たるだろう。

 

遼々たる海底の、ある箇所が、ある瞬間、ごぼりと山ごと持ち上がったかと思うと、シロナガスクジラの群れをぱくっと喰いちぎるようなことが無いだろうか。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「鰭」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/1/24 12:16
スニペット「自転車」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「自転車」です。

 

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お忘れかもしれないが日本は戦争に負けたことがある。思いのほか徹底的に負けて、アメリカから占領軍がジープに乗ってやって来た。

 

余計なことだが、日本とアメリカの間にはむろん太平洋がある。ジープで太平洋は渡れない。

 

だから太平洋のほうは船で渡っておいて、ようやく堅い陸地まで来たところで、幾ばくかのジープと兵を放り出して、それから、ジープに乗ってやって来たに違いない。いかにも、アメリカ人のやりそうなことである。日本人だってもしその立場にあったら同じようなことをしただろう。

 

アメリカ兵はジープに乗って走っている。アメリカ兵は日本の各地にいるから、日本の各地をジープに乗って走っている。

 

当時もちろん既に日本にも自動車はあったがジープは無い。ジープでないその自動車も、まだ人々がたやすく使えるものではなかった。人々がたやすく自動車を使わねばならない必要が生じるほどに忙しい忙しいと誰もが忙しがるような時代では、なかったのである。そのような時代に、アメリカ兵はジープで走る。見ていると何だか癪である。ジープなんかでそんなに走って、どこへ行くつもりか。

 

尤も、癪がっているのは大人たちだけで、子供たちは案外面白そうに眺めている。

 

ジープが走る光景はいかにも、眺めて面白いだろう。眺めるのみならず、後を付いて走り出す子らがある。ジープの後を付いて走るのはいかにも面白いだろう。それはただ面白いのみならず、たいへんな利益を得ることになるかも知れない。ジープに乗ったアメリカ兵は、その車上からアメリカの菓子を放り投げる可能性がある。

 

ジープに乗って走るアメリカ兵が、驚愕の目を見張った。

 

日本人が、自転車で走っている。

 

自動車はまだ日本に少ないが、自転車ならある。その自転車に乗って日本人が走るのだから、別段のこと驚くには及ばない。アメリカ兵が驚いたのは、自転車の乗り方である。

 

自転車で走るその日本人は、蕎麦屋の出前持ちであった。

 

蕎麦せいろを、八つも九つもうず高く積み上げて、うんと左手に支えている。右手は自転車に柄に軽く添えている。

 

道筋はむろん真っ直ぐではない。くねることがある。曲がり角がある。地面は、鉋をかけたように平たいはずはない。でこぼこしている。さらに道というものは、自転車が一方通行するだけの場ではない。歩く人が大勢いる。あちらへ向かう人がある、こちらへ寄せる人がある、時には、横合いから飛び出す人まである。

 

出前持ちは涼しい顔をして走っている。

 

――そりゃあもう、びっくりしておったもんさね。懐かしく古びた町の趣が色濃く残る土地の老人から伺った、酒肴の小鉢をつつきながらの、何でもない話である。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「太平洋」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載