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hirano関数@2014/7/14 11:29
スニペット「天空」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「天空」です。

 

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誰もがポジティヴな印象を持つに違いなく、誰もがそれに反対し得ないというものが、幾つかある。「希望」がそうだ。或いは「愛」もそうだ。「光」や「自由」や「誠実」や「マザー・テレサ」も同様だ。「天空」もまた同じくである。

 

天空には何かすばらしいものがあるだろう。あるはずだ。ある。どうもそんな気がして、凶事をもたらすものと言えばせいぜい雷くらいのものであるが、それは天が怒りを示しているのだからその場合人間のほうが悪いのではないかという風に思える。地震も火事も親父も、大地のものである。この我々の大地を遥か離れた天空には、超越的な何かがある。そこから我々は恩寵を享ける。

 

我らの大地、という言い方は成立つけれども、我らの空、という言い方が成立たないというこの感覚が、それを明らかに示唆する。

 

如何に人類が地球上に繁栄しようとも、天空は、いつまでも我らのものにはならない。飛行機を飛ばすか、人工衛星を抛り出すかくらいが関の山である。高層ビルなんてどんなに高く聳えてもそこは牢獄に過ぎない。

 

神、空にしろしめし、世はなべて事もなし。そういうわけで、空というすばらしい世界は、我ら卑小な人間などのものにはなり得ない。

 

鳥のものである。

 

天にまします神よと祈る人は多いが、案外、鳥のことはうっかり忘れられている。むろん巣を営むのは地面にだけれども、しかし空に生きる者こそは、鳥である。何千キロメートル何万キロメートルと空の旅をする鳥もいる。人間はそれを、唯だ憧れの眼差しで見上げるばかりである。

 

だから、鳥は人間よりも神に近い。そう言っては無神論者が承知しないかも知れないが、それなら、鳥は人を超えている。鳥人とは即ち超人である。重力に縛り付けられて大地をうろつく人間の、はるばると上を駆けて、鳥がゆくのは天空の世界である。

 

天空からは陽光が、雨が、つまり恵みが降り注ぐ。その天空をゆく鳥もまた、地上の人間に何かをもたらしてくれることがある。

 

北瀬桐子はヘアサロンに行ったばかりの帰り道だったのである。不運としか言いようがない。桐子はほとんど泣きそうになりながら帰宅して、せっかく整えた髪を崩して、洗い流した。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「親父」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/11 11:41
スニペット「星」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「星」です。

 

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改めて言うのも野暮なことであるが、ヒトデは人でない。だがそうかと言って、ヒトデを以て人でなしと看做すことは出来ない。

 

ヒトデは人でないというのは論理的に間違っていないが、同時に、人でなしではないのである。軽蔑に値する人のことを人でなしと呼ぶことはあろうとも、ヒトデのことを人でなしと呼んではならない。そんなことをすれば重大な混乱が生ずる。

 

下らぬ話をするようだが、人手が足りなくて困っているのにヒトデはあり余っている、という状況は現に生じ得る。ヒトデは大量発生して人手を煩わすことがある。ニュース映像などで見てその様子を何となく知っている人も多いだろう。

 

私はと言えば、港町に育ったから、実際の体験としてよく知っている。ヒトデ退治をどうするか、町の大人たちが深刻な顔をしていたのを憶えている。そうした状況になってしまうともはや、どうにもならない。幾ら人手があったって無数のヒトデには対抗しきれるものではない。

 

些か不思議なことにヒトデは、人間が珍重するものばかり好んで喰うのである。ウニを喰う。ホタテ貝を喰う。美しい珊瑚を喰う。何だか高級な食生活である。どうもヒトデは案外、人にかなり近い嗜好を抱いているらしい。よくもまあそう人の好みを知っているものだ、人でないくせに。そんな風に思えて来ないだろうか。

 

漁師はヒトデを憎んでいる。せっかく営んだ漁場を食い荒らす、厄介な連中である。

 

海の星と書いてヒトデである。遥か天空から流れ落ちた星の欠片がヒトデになった、という類の幻想譚は子供を喜ばせるかも知れないが、漁業で暮しを立てる大人の現実にしてみれば、到底そんなものではない。

 

オニヒトデなんて、鬼みたいに憎い最悪の存在である。相手は人でないとは知りながら思わず、この人でなし、と罵りたくなってしまうのだがしかし、ヒトデがなければこんな安心なことはないのであって、世の中に絶えてヒトデのなかりせば、海の心はのどけからまし。

 

私は結局、漁師という家業を継がなかった。もちろんそこには私なりにさまざまの、一言には尽くせぬ思いがあるけれども、その中にはあの怖るべきヒトデもまた、ほとんど無意識の領域で、微妙な影響を及ぼしているのだろうと思う。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「天空」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/10 13:42
スニペット「安価」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「安価」です。

 

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カネの、量を横軸に、心裡的効用を縦軸に取ってみればそれは対数関数のグラフを描く。

 

若い頃のあの貧乏時代が一番人生に張合いがあった、と懐古する人が多いのも道理である。そうかと言って、幸福追求のため自ら志して貧乏暮しを飽くまで堅く守り続ける人がいないのも尤もである。少しはいるかも知れない。

 

大和田喬史は、世間のご多分に漏れず不本意ながら貧乏である。定職に就いている。賭博は嫌う。酒は、まあ僅かなら呑めないこともないが下戸に近い。それでどうして貧乏かと言うと、それがよく分からない。

 

星の下に生れ付く、ということがある。ボーヴォワールをちょいと引繰り返した形で拝借してみれば、人は貧乏になるのではない、貧乏に生まれるのだ。貨殖の才というものがあるとすればその反対があっても何も不思議はあるまい。かくて大和田は貧乏である。

 

大和田のその定職とは何かと言えば、定食屋である。

 

日本全国にチェーン展開する定食屋の、大域地方支部とでもいった格好のオフィスに勤めている。薄給と見れば薄給だが不当待遇というほどでもない。企画部が出して来る新商品あるいは既存商品の改革の、細部を詰めるのが大和田の仕事である。食材の発注先を割振ったり、販売促進用のポスターを手配したり、という地味な役廻りである。大和田が自らそう思っている。

 

何しろ貧乏だから、大和田の発想にはどうしても消極の傾きがある。手堅く、慎ましく、安定的である。だからこそ仕入が関わる業務担当に相応しいのであって適材適所と見るべきだが、問題がないわけではない。

 

商売とは畢竟、安く手に入れたものを高く売り付ける、これに尽きるはずである。高く売り付ける、のところで大和田の性分というものが違和を訴えて来る。一介のサラリーマンとは言え商売人として、如何なものか。

 

或る商品に、或る価格が付こうとする。意欲的な価格にしてみる場合もある。そこで大和田は、そんな高い値段じゃ俺は買わんな、ほとんど生理的反応としてそう考えてしまう。実際にはそうとも限らないわけで、しかしその辺りが承服できない。別に大和田が価格の決定に参与するのではないから問題ないが、全く問題ないとも言えない。淡く滲み出る何物かがある。それは大和田の周囲に影響し、また大和田自身に返って来る。

 

大和田という男は結局、安価なものが大好きなのだ、と言うしかない。己の給料についてさえもである。

 

給料が安いのを喜ぶとは全く筋が通らぬようだがしかし、必ずしもそうと決ったものでもない。こうした陰翳を、経済学などで扱うことはじつに不可能だろう。

 

今日の大和田は、上機嫌である。

 

靴が欲しいなと思っていたところ、そう悪くない見た目の靴を、四八〇円で買ったのである。こうした安物買いで、銭失いということを大和田は経験したことがない。やはり、これはこれで天賦の才というものらしい。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「星」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/9 12:11
スニペット「護衛」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「護衛」です。

 

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たとえば大統領が来日して、車から下りて歩き出す傍にぴたりと寄り添う体格の良い男がいる。複数人いる。

 

みんな体格が良いから、大統領の姿があんまり見えない。そのように目立っているが、これがシークレットサービスである。何がシークレットか。さりげない背広姿だがじつは密かにごつい機関銃を携行している、という意味のシークレットかも知れない。

 

要人の護衛は、こっそりやるべきか、公然とやるべきか、という話がある。護衛すべき偉い人は、畏れ多くも偉い人であるし、行動を阻害してはいけないからなるべくこっそり。それが素直な、或いは日本人的な発想だろう。ところが現実の悪意に対して、それではまずい。示威効果ということが必要である。猛犬注意の看板の類である。だからシークレットサービスは大統領よりも目立っている。

 

そんなことを板川志郎がふと思ったのは、注文した天ぷらの海老がじつに、まことに、全く、返す返すも、小さかったからである。衣はたいそう立派だった。

 

むろん、そういう海老天に遭遇するのは世間でちっとも珍しいことではない。小麦粉は安価であり、海老は高価である。

 

海老と衣とが如何なる比率で成立していようとも、それについて文句を言うだけ野暮である。言って詮無いことである。板川だってそれくらいは心得ている。文句は言わないがしかし、不満は抱く。考えてみれば、およそあらゆる社会問題とは、この種のことに胚胎するものかも知れない。人間関係の軋みだって同じだろう。

 

抱いた不満はどこへ行くか。次なる天ぷらへの、過剰な期待及び不安となる。期待とは、たまたま今回が例外的事態だったのだろうという好意的な見方である。不安とは、どうせこの調子ではどいつもこいつもという悲観的な見方である。

 

海老は二尾いた。いま一尾を喰ったから、あと一尾ある。衣はたいそう立派である。

 

それを、睨みつける如く、何物かを探り出そうとするかの如く、板川は熱っぽい目付きでうち眺めている。この店に対する板川の個人的印象が以後、永遠に決定される、その重責を、この立派な衣の先に潜むべき海老一尾が背負わされている。

 

板川は衣に噛み付いた。

 

そう言えば日本国憲法は、諸国民の公正と信義に信頼して、平和に生きて行きましょうと言っている。考えが甘すぎるのではないか、と疑問を感じる人もいるだろう。こちらの期待と、現実とは、むろん別物である。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「安価」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載