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hirano関数@2014/7/18 11:37
スニペット「羊羹」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「羊羹」です。

 

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どうも重たくて苦手なものが幾つか吉屋虎雄にはある。たとえば政治である。たとえば女の愚痴である。たとえば練り羊羹である。性分だから仕方ない。

 

何もあんなにも切実なまでにぎちぎちと重たくすることはないのじゃなかろうか。和菓子においては大抵が、大福でも柏餅でもどら焼きでも、餡が重きをなすことになる。そしてその精髄でございとばかりに羊羹は、餡と、餡と、餡と、餡をいっぺんに凝集して、これぞ俺だという顔つきで黒々と澄ましている。言わば羊羹は和菓子宇宙におけるブラックホールである、と吉屋は思う。

 

まだある、長尺と呼ばれるような長編映画が、吉屋は苦手である。あれは重たい。

 

不思議だが小説なら長くっても良いのである。本はもともと読むのに時間が掛るから、いっそのこと思い切って長いほうが、嵌り込むことが出来さえすれば当分の間そこに没入してしまって別乾坤に遊んで、いつの間にやら五時間も六時間も過ぎていたなどというのは、或る種の良い気分である。時間を立派に浪費してやったぞという趣がある。映画はそうは行かない。

 

そうは行かないというのはつまり、映画に求めるものがストーリーではないからだと吉屋は自己点検してみて感じる。映像によって物語るとはたいへん露骨な、剥き出しの手法である。

 

舞台上の芝居は、はりぼてだの、役者の大袈裟な身振りだので、最初から明らかに嘘っぱちであるということを引受けていてそれはそれとして結構な味がある。しかし映画はおそらく、リアリズムに寄添うことを金輪際止められっこない。それが映像媒体の性質なのだろう。だから、自然破壊の実態とか、戦争の悲惨の告発とか、ええとポルノとか、そういう露骨なものを差出すときには映像は、比類ない力を発揮する。それは物語ることよりも見せつけることである。

 

で、そういうものを長たらしく見せつけられると気分が滅入る。撮ったほうとしては狙っているわけだからどうにもならない。実際、一二〇分を超えるような長尺の映画には、エンタテインメントよりもジャーナリスティックな作品が多いような気がする。たまにならば結構だけれどもそう度々親しむ気にはなれないのであった。深く考えさせられる映画、と称する映画ほど胡散臭いものはないと吉屋は考えている。それはコメンテーターの胡散臭さである。

 

それから他にもある。霊である。

 

何の因果か、吉屋には霊が、二、三体は憑いている。常時取り憑いている。質量も持たない霊のくせして重たいとは不当極まりない話であって、これが重たくて重たくて困る。もし仮に祓ってもらったところでその霊はすぐ他の誰かに憑いてしまうのだから、霊を他人に押し付けるだけの傍迷惑な結果に終る。第一、そう容易く祓えるものではない。

 

こちとら苦手なのに動物に好かれてしまう人、という人はいる。霊についても同じである。性分だから仕方ない。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「自然破壊」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/17 13:33
スニペット「体型」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「体型」です。

 

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アンコ型、ソップ型、と何気なく言うのだがそれが最近ではとんと通じない。ソップとは何であるかソップとは。ソップ。それにアンコのほうも、固めて羊羹にしたり溶いて汁粉にしたりするアンコのことかと思いきや違うらしいのである。

 

通じなくても已を得ない、ともあれソップ型である。出崎浩二郎は、ソップ型だなと思わせる体型をしている。

 

出崎は何の変哲もない営業マンであって力士ではないのであって、だからこそそうした印象の意味がある。相撲部屋に入ろうと思ったことはあるかと戯れに訊ねられた出崎は、ないと答えた。気を悪くしたようにも見えない。

 

痩せましたね、という話し掛けが、「いい意味」であって、ゆえにお世辞として成立するという社会風潮が形成されてしばらくになる。ほんの五、六十年前には正反対だった。太ることのほうが「いい意味」だった。たとえば、とんかつを食べれば太れますよ、お試しあれという宣伝を掲げたとんかつ屋があったりした。例の、グリコの、一粒三百メートルというのもこの意識の延長線上に位置すると見ていい。今の人、特に若い女の子たちにしてみれば、太れます! それが売り文句になっていたとは全く想像を絶しているだろう。

 

相撲をやろうとした憶えがあるまいかと出崎に訊ねた者は、要するに、あんた太ってるねえと言い放ったも同然である。

 

これを侮辱だと捉える感受性があるから、そういうことを言う者は普通いない。普通いない、ゆえに稀にはいて、だから出崎はそういうことを言われた。但しそれは、感受性である。感受性は時代によっていとも容易く変化する。あんた太ってるねえと言われたら喜んでにこにこする時代もかつて、あった。今は腹を立てる時代である。出崎は腹を立てないようである。

 

しかし出崎はソップ型なのである。太っているには違いないが、然るべき場に放り込んでみればたちまち痩せっぽちに見えるということであって、言わば相対性原理である。アインシュタインのは時空の相対性、出崎のはガタイの相対性。出崎が力士でなくて営業マンであることに意味があるというのはそこである。何の変哲もないどころじゃない、大いに変哲がある。

 

じつに単純なことである。あなたの会社に或る日、力士がやって来て、企画書や見積書を並べてぺらぺら喋り始めたらどうだろうか、ということを想像して下されば良い。

 

出崎の上司は出崎が営業マンとして使えると判断し、出崎はそれを受け入れたのである。そこから先は出崎の能力次第である。力士みたいな男が意外にも知的なところを見せつけてやれば、大いに信頼を獲得する可能性がある。何が意外なのだか知らないが意外なのである。人の心裡とはいい加減なものである。太ってると言われて気を悪くしない、まさしくその点に、出崎の能力の一端が示されている。出崎は、自身を客観視することを知っている。出崎は、自身を利用することを知っている。

 

出崎の営業成績は抜群である。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「羊羹」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/16 11:30
スニペット「脱皮」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「脱皮」です。

 

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皮と肉を脱いで骨だけになって涼みたい、と暑い夏には言うことがある。現代っ子は言わないかも知れないが昔は言う人がいた。

 

下らない冗談だ、同時に、超現実がほの香る詩情だ。むかし言っていま言わないのは、エアコンのためだろう。自然を文明の力で征伐しながら暮していれば、自然の中に抱き取られて暮しているのとは、むろん実感が違う。詩とは自然の女神の恩寵である、という定式が妥当するとすれば、現代人の感性から詩が失われるのは当り前で、それをいまさら嘆いても仕方がない。嘆くより他に、することがある。

 

「暑い」

 

「暑い」

 

「体感温度がね、どんどん上がっちゃうんだよ暑いって言うたびに」

 

「暑い暑い暑い暑い」

 

「今ので一度プラス。ああ暑い」

 

「脱皮したい」

 

「なんて。ダッフィーの屍体?」

 

「脱皮したいって言ったの。ディズニーに怒られるよ」

 

「怒られたくない。脱皮してどうするの」

 

「どうもしない、ただもう暑すぎて。ちょっと気持ち良さそうじゃない。脱皮」

 

「そうね、スリム体型になれるしね。ダッピング・ダイエット」

 

「蛇もダイエットしようとか考えるのかな」

 

「そりゃ考えるわよ。ほら、鳥の卵のでっかいやつなんかガパッと呑み込んで、お腹が卵のまんまにボコッてなってて、重たくて動けなくなってたりするでしょう。ああ、食べ過ぎちゃったなあって」

 

「見たことない。そんなの見たことあるの七海」

 

「ない。適当に言った。それ言うなら梢江のほうが田舎にいたんじゃない」

 

「蛇はねえ、ド根性ガエルみたいになってる。道路に」

 

「ああ何かと思ったらそういうこと」

 

「生きてるのって意外と見たことない。たぬきは会ったことある、結構。何回か」

 

「あたしも会ってみたあい」

 

「きつね対たぬきのね。きつねが切れ長のイケメン、たぬきがまるっとしたいい人、みたいなイメージがあるじゃない。でもね違うの。たぬきって格好いいの。すらっとして、目が光って、イケメンなの」

 

「会ってみたあい」

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「体型」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/15 11:22
スニペット「親父」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「親父」です。

 

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保育園だか幼稚園だかの頃から一人称に「おれ」を使う、そんな子はない。ところが世の中を見渡せばおれと言う男性がいっぱいいる。即ち、成長する過程のどこかで少年は、おれと言い出した。その瞬間があったはずなのである。

 

ようし今日からおれはおれだぞと或る日或る時にふと思い定めたのか、それとも、ガキ大将の格のやつにでも嘲笑われた恥しさの勢いで言い出したのか、それとも。

 

状況はさまざまだがどうあれ、生れて初めて「おれ」と口に出す、その瞬間の心の動きということがある。それは蛇の脱皮のようである。ほんの細やかな、しかし少年にとって極めて重大な、自らが自らに課すイニシエーションである。その心を少女は知らない。初潮を迎えた少女の心を少年が知らないのと同じように、知らない。

 

じつは、それによく似た通過儀礼が男には、少なくとももう一度、訪れるのである。それが、親父である、お袋である。

 

保育園だか幼稚園だかの頃から両親のことを「おやじ」「おふくろ」と呼ぶ、そんな子はない。あー、かわいいねー、いい子でちゅねー、ほーら、おやじでちゅよー。そう喋りかけながら赤子の揺り籠をにこにこして覗き込む父親はないからである。そこはどうしてもパパである。控え目に言ってもお父さんである。そう聞され続ければ、子のほうは当然それを口写しに反射して、そう呼ぶようになる。而して、自分の父親のことを「パパ」と呼ぶ取締役や工場長や衆議院議員はない。

 

パパはいつから親父となるか?

 

これがいわゆる、文化人類学的言語心裡論である。そんな学問領域は存在しないとお思いだろうが、こちらも単にそれらしいことを適当に言っただけのことであって聞き流して頂きたい。わたくしは唯だ、親父と呼び始めたのはいつのことだったかなあ。ぼんやりと追憶に耽っているのである。

 

憶えていないのが残念である。「おれ」を言い始めた日のことなら憶えていて、それは太陽がじんじんして向日葵がやたらに黄色く見えた日のことだった。しかし「おやじ」のほうはどうも判らない。高校生の頃か、高校を卒業して働き出してからのことか、それさえも思い出せない。中学生ではないのは確かと思う。いずれにせよそれまでは「とうちゃん」だった。

 

昨日のことである。わたくしの独り息子が、わたくしの背後から突然、「おやじ」と呼びやがったのである。

 

その瞬間のことを、わたくしは忘れないだろう。日付を、椅子の背凭れを、天井の照明の光り具合を、隣の部屋から漏れ聞えていたテレビの音声を、そして、その一語を初めて口にした息子の声の調子を、生涯きっと忘れないだろう。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「脱皮」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載