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hirano関数@2014/7/28 10:32
スニペット「おにぎり」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「おにぎり」です。

 

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森羅万象あらゆるものを論争したがるのが人情というもので、ゆえに、目玉焼き論争などということがある。醤油だソースだと論じ合っている。政治論争と目玉焼き論争との違いは、前者が、言い争う人間たちが低俗な言動をしがちであるのに対し、後者は、言い争う話題そのものが低俗である。したがって後者のほうが上品に見える。

 

そこでおにぎり論争であるが、これが勃発した。この類の論争は食堂か酒場か喫茶店かいずれにせよ飲食の場において勃発するのが常なのだが、それが何とも場違いなことに、職場において勃発した。

 

おにぎり論争は目玉焼き論争よりも、広い。三角型か俵型か、具は梅か鰹か、梅のうちでも潰れ梅かカリカリ小梅かと論点が次々に出て来る。うかうかしていると議論が無限に発散してしまう。本件における当座の論点はシーチキンに絞られたらしい。

 

「好き嫌いで述べるならば私はシーチキンを好まぬのである」

 

「むろん個々人の好みは自由である。今は、おにぎりにおけるシーチキンの一般妥当性について話している。しかしこの際、なぜ好まぬかを問うてみることには意義があろう。なぜであるのか」

 

「思うにそれは、シーチキンの問題でない。マヨの問題である」

 

「なるほどである。しかしながらであるが」

 

「待つのである。私の主張はこれからである。ラベルにはシーチキンと書いてあるのである。シーチキンとマヨとの関係は必ずしも論理的必然ではないのにもかかわらずである。世間ではツナマヨ、ツナマヨと称して余りにもツナとマヨとを一蓮托生の如く思い込みすぎである。ツナキムも結構なものであるはずである」

 

「ツナキムとは何であるか、キムチのことであるのか」

 

「然りである」

 

「なるほどである。しかしながら次のような点を閑却してはならぬ。即ち、古より伝わるうめ、おかか、しゃけ並びにこんぶという伝統的おにぎり界に颯爽と降臨したシーチキンは、西洋風の香気を帯びていてこそ、新鮮味を以て受入れられたのである。いわゆるところのミスマッチゆえにこそである。いちご大福の如きである。その新鮮味を根底において支える者は何者か。マヨであるのである」

 

「なるほどである。私は好まぬけれども、確かにマヨの重大性は認めるものである」

 

「私はしたがっておにぎりにおいては、まさしく一般通念の通り、ツナとマヨとは一蓮托生であると看做すものである」

 

「それこそを私は承服しかねるのである。たとえばスパイシーシーチキンでも良いのではないかと存ずるのである」

 

「それは、シーシーと言いたいという動機のみによる発想ではあるまいかと私は疑うものである」

 

「図星である」

 

何しろ言い争いであって実際の言葉遣いの端々はそのまま写すに堪えないから、趣旨のみ抜き出せば、以上のようなことを延々論じ合っていた。コンビニエンスストア企業のオフィスにおける一情景である。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「森羅万象」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/25 12:21
スニペット「藻」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「藻」です。

 

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うちでは味噌汁によく藻を入れる、と言うと何だか珍しく、何だか不味そうだ。

 

ところが、わかめも藻のうちなのは確かであってそれなら改めて言うのも変なほどに普通のことだ。わかめとは藻にして最も藻らしくない、言わば、アンチ藻なのだ。こんぶも同じことで、おにぎりの具、何がいい? 藻。やはりアンチ藻だ。元素記号 Sb のアンチモンではない。

 

子供の頃から清岡久美は、藻には目がないほうだ。おやつに焼きのりをばりばり食べて大人たちの首を傾げさせた、というのが折に触れて母親がよく話してくれるお笑い草の逸話だ。今となってはさすがにそんな気も起きないが、確かに、のりは好きだ。わかめも好きだ。ひじきも好きだ。

 

どうしてこう食用の藻とは、おっさん臭を放つ物ばかりなのだろうという気がするが、つまり、藻が含んでいる栄養分が中高年に男性には欠乏しやすく、それでおっさんはわかめ蕎麦なんか喜んで食べる傾向がある、ということだろうか。そういうことから、久美が如何におっさん的性格を発揮する二十代女性であるかについて話が及んでもいいのだが、そうは行かない。

 

誰が見ても淑やかな、いわゆる女性らしい女性を久美は体現している。ジーンズよりも絶対にスカートのほうが似合う、それもロングスカートが、といったような佇まいだ。食の嗜好から人の性格を推定しようなんて単純思考は、的外れもいいところだ、ということがこれで分かる。唯だ単に久美は、藻が好きなのだ。そこには理屈はない。そこには藻がゆらゆらしている。

 

水族館に行った。久美はいわゆる女性らしい女性を体現しているからして、それが放っておかれることは自然の摂理からしてあるはずもないのであって、わらわらと群がって来るものがある。

 

そこで久美は、胸のうちでそおっと、群がる者どもの中から比較的ましなのを選んで、それから容赦なく厳選して、お出掛けしてみることがある。たまにある。たまにしかない。これは身持ちの良さと言うよりも、久美の高邁な理想主義によることだと見るほうが実情に近い。水族館デートのお相手は啓太と言った。

 

「ねえ、あれ見て。すげえな」

 

「わああ」

 

「これ何だろな」

 

「そうね、変なの。でもきれい」

 

誰もが知るように水族館とは、代名詞と感動詞とばかりが飛び交う空間なのだった。現物は目の前にある。そういうときに人は、代名詞と感動詞としか表現手段を持たないのだ。

 

「…おいしそう」

 

ふと久美は小さく呟いた。それを聞き留めた啓太は、水族館に魚を見に来ておいしそうとか、ベタなギャグじゃねえんだからとか何とか言って、けらけら笑った。

 

啓太のその反応はちょっと単純すぎてベタなのはじつは彼自身のほうなのだった。水族館でゆらめいているのは魚ばかりではない。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「おにぎり」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/23 12:03
スニペット「文脈」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「文脈」です。

 

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少し考えてみるとすぐ判るのだが、川は、現実のどこにも存在しない。

 

水はある。石もあるし砂もある。泳ぐ魚もある。すばやい蟹もある。ぬるりとした藻もある。釣り人が放り込むテグスだってある。そうやって見ていくと、川がどこにもないのに気付く。これはなぜかと言えば、川は、動詞だからである。じつは名詞なのではない。

 

川が流れる。そう普通に言うけれども、素直に考えて、川が流れたらどうなるか。たちどころに川は目の前から消え失せてどこかへ行ってしまう。人体において、血が流れるのは構わないが血管が流れたら困るであろう。

 

殊更に言語上の遊戯に淫しているようだがそうでない。唯だ単に、川は存在しない、川は動詞であるということを明らかにしたい。川を水が流れてゆく、それを称して川が流れると言う。本当は、地面のとある箇所において水が流れることを川と言っているのである。だから動詞である。

 

したがって、いのちである。いのちとは、動くことそのものである。

 

いのちを持たない者、或いはいのちを喪った者は、動かない。その論法で行けば、ならば転がる石はいのちだと言うつもりかと問い詰められそうだが、然り、そう言うつもりである。今まさに転がりゆく石はその瞬間、生きている。生きているから、草を踏み潰したり、トレジャーハンターを追っかけたりする。川面に落ちて流れゆく昨日の新聞紙の切れっぱしさえもが、いのちか。いのちである。川という、いのちそのものである者のいのちが、新聞紙にも束の間ながら乗り移っている。

 

そんなことを言い出せば、あらゆる物体において電子が光速度で動き続けているではないかと問われるなら、いや、そこまでは考えません。弁解のように言い添えると、そうした粒子レベルの観察においてはそもそも、自分の美しい恋人と、オオヒョウタンゴミムシとの区別さえも付けられやしない。

 

川が動詞でありいのちであるように、言葉もそのようである。

 

話し言葉はまさに動きそのものであって一瞬たりとも存在し得ず、それがどうも惜しいものだから書き留めて、書き言葉つまり文となす。文は、読まれない限りは死んでいる。読めば動き出す。だからいのちが宿っているのが分かる。幾ら読み続けてもちっとも動き出さない死んだ文というやつもあるがそんなものは論外である。

 

いのちということを「脈」と言い替えてもよい。川とは水脈である。心臓とは血脈の源である。風水の考えでは大地には龍脈というものがある。文の生命とは文脈にほかならない。

 

以上のような文脈を辿って来て、いかがだろうか。あなたに宿るいのちは、この文脈を通じて、わたくしのいのちと、感応してくれているだろうか。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「藻」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/7/22 14:45
スニペット「自然破壊」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「自然破壊」です。

 

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人間の腸には、数百種類の生き物が生きている。いわゆる腸内細菌で、数百匹や数千匹どころではない、数十兆匹もいると言う。

 

人間は想像力の乏しい生き物だから、兆なんて大きな数が出て来るとたちまち実感が持てなくなる。日本政府の国家予算が、幾らだか細かい数字は知らないがまあ数十兆円だろう。自分の腸内細菌がもしも一円玉だったら、それだけで国家を運営してゆける。

 

兆の単位の数の《他者》たちが、腸で、暮している。人体とは、超の付く大所帯である。人間てのは独りで生きてるわけじゃねえぞ。その戒めは、じつはこのことを指して言っているのだと考えてもいい。

 

そうして、ものを喰って生きているのだが、喰われるほうの相手にしてもご同様というわけで、超大所帯が、超大所帯を喰うことで、超大所帯を維持している。

 

喰うということはそれほどの一大事なのだがしかし、味覚破壊ということが言われて久しい。

 

ホンモノの味が判る人がいなくなったと言うわけで、大概この手の文脈で言うところの「ホンモノ」とは「おれが認める」の意味に過ぎないことが多いものだがともあれ、味覚破壊らしい。それは、旬のものを喰わなくなったせいだろう。旬のものを喰わなくなったのは、自然破壊のせいだろう。言わば、ゴルフ場が増えれば舌オンチが増える。舌オンチが増えれば――ええたとえば、板前のこめかみに青筋が増える。

 

「だから、自然を破壊すれば、どんな予想外の困ったことが起こるか。全く判ったものじゃないんだね」

 

「板前が癇癪を起すことが?」

 

「そうだ。いや、本当はそうじゃないんだが。そうだということにしておこう」

 

「何だいそりゃあ」

 

「じつは俺にも何がなんだか。おかしいな、こんなつもりじゃなかったんだが、話す内にこうなった。おい、何の話だったかな」

 

二人の酔払いが喋り合っていた。アルコール摂取による、理性の自然崩壊である。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「文脈」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載