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hirano関数@2014/8/12 11:37
スニペット「拡散」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「拡散」です。

 

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全国津々浦々を漫遊する黄門様には、助さん、拡散という二人のお供がある。

 

黄門様は、まことに情け深く立派な雅量のお人柄であらせられる。助さんは、女好きなのだけがちょっと困り者だけれどそれでこそ男らしい面があるし剣の達人で本当に頼もしい人である。しかし、拡散はよく分からない。

 

黄門様ご一行は、宿場町の悪い役人なんかを成敗して下さり、そしてまたどこかへカッカッカと旅立って行かれる。それは末永い語り草となることであろう。天下の副将軍様の畏れ多くも神々しいお姿のことを、胸のすくばかりの太刀捌きでチンピラどもをばさりばさりと斬り捨てた助さんの凛々しい戦い振りを、熱く語ってやまないだろう。黄門様に救われた人たちも、見物人たちも、懲らしめられた悪漢どもも、さらにはそれを噂話に聞いただけの野次馬たちも、その伝説を継いでゆくだろう。しかし、拡散はよく分からない。

 

黄門様は確かにお供を二人お連れだったと思うのだが、紛れもなくそのはずなのだが、助さんと、あともう一人。それが誰にも思い出せないのであった。

 

思い返そうとすれば思い返そうとするほどに、頭が茫として記憶が霞がかってしまう。何でも朧げに憶えているところでは、拡散というお方だったような気がするが、その名までもどうかすると出て来なくなる。幾ら感謝申上げても足りないほどの大恩人のことを、忘れるとは言語道断である。だから勿論、決して忘れはしない。当然憶えている。ご黄門様でしょう。助さんでしょう。それから、それからだな、ええ。

 

結局、「黄門様ご一行」ということで集合論的把握のみに留めておいて、その先は、気にしないことにする。その現象が、どこの宿場町でも共通して顕著に見られるのであった。

 

黄門様は今日もカッカッカと、助さん拡散を連れて漫遊している。拡散本人は、何を、どのように、考えて旅するのだろうか。

 

尋ねてみれば興味深い話が聞けるかも知れない。拡散には拡散の性格があり、役割があり、生き方がある。だがそれを言うならば全ての人がそうである。つまり、拡散はどこまでも拡散である。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「剣」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/8/11 11:44
スニペット「喧嘩」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「喧嘩」です。

 

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別に宗市くんは怒っているわけではないのだが、どうも追詰められている。そして聖子さんは、相手が怒っているわけではないことに対して怒らざるを得ない成行きに、どうも追詰められている。

 

「だからそこでさっき言ってたことに、繋がるんじゃないのか。俺の時間の使い方が下手だってんだろ」

 

「それもそうかも知れないけど今そんな話じゃないでしょ。何言ってんの本当」

 

「何って、分からないから」

 

「何が分かんないの」

 

「そもそもの、話の前提」

 

「だから前提とか何とかそういう、理屈っぽいところが変なの。なんでそう、頭でしか考えられないの」

 

「そんなこと言われてもな。考えるところは頭しか無いもんなあ」

 

「ああそれそれ、そういう反応が厭。もうすっごく厭。冷静になっちゃって」

 

「勝手に怒ってるのはそっちだろ」

 

「ひどい、勝手にって。何もなかったら怒るわけないでしょあたしだって。何が勝手によ、どっちが勝手だか。我慢してることいっぱいあるんだから、気付きもしないくせに」

 

「な。たぶん、そこの所なんだよ。溜め込むだろ不満を、黙って。だから喧嘩になるんだよ。言やあいいだろ」

 

「言ってるでしょ、言ってるの何回も何回も。聞かないじゃない。全然伝わらないんだから本当」

 

「分かった分かった、じゃあいま聞くよ、たとえば一つ。まずは話を絞らないと、拡散してどんどん厄介になるんだよ。これが、っていうのを言ってみろよ」

 

「ああもう何それ、全然違う。一つだけとかじゃないの!」

 

「だからたとえばだよ」

 

「だからこの間だって、いきなり予定変えたせいで結局、美術館がなしになっちゃったじゃない。あたしの都合は? どうでもいいわけ?」

 

「いや待てよ、ちゃんと聞いただろ。それでオッケーって納得してただろ」

 

「独り決めで状況作っといて聞くも何もないでしょ。あんなの、仕方ないからオッケーって言うしかないじゃない。わがまま過ぎるよ本当。あたしが我慢って言うのはそういう所! せっかく服もアクセも選んで決めてたのに」

 

「なあんだよ要するに、ファッションのことで不満だったわけ?」

 

「それもだしそれ以外もなの、だから一つだけとかじゃないって言ってるでしょ、要するにっていうのが違うの、全然分かってない!」

 

この調子ではあと二時間ほどは必要かも知れない。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「拡散」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/8/8 10:10
スニペット「教室」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「教室」です。

 

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良い妻を得れば幸せになり、悪い妻を得れば哲学者になる。それは有名な話だが、この一部分をいじくると、パロディの一般性質として、面白く思索が拡がることになる。

 

たとえば、「妻」のところを「小中学校の思い出」と置換えることが可能だ。良い小中学校の思い出を得ている人はそもそもこういった種類のことを考えない。或いは、幸せな夫を得れば良い妻になり、哲学者の夫を得れば悪い妻になる、と引っくり返してみる。妻には妻の言い分がある。

 

わけも分からずこの世にぽつりと生れた一人の子が、惨々たる小中学校時代を送って、喧嘩の絶えない結婚生活を送って、かくて立派な哲学者が出来上がる。この際の哲学者とはもちろん、哲学専攻学者のことを言うのではない。物事を自分の頭でしつこく考える人のことだ。だからたとえばお笑い芸人は結構、哲学者に近い。

 

いっぽうここに、学生時代も結婚生活もまずまず幸せに、全面的に幸せということは不可能だからまずまずと言うほかないのだが、ともかく幸せに世を渡って来た人がいる。世間の大多数の人はこちら側らしく見える。ごく普通に生きていると、人間はついつい幸せになりがちなものだ。現に、私もそうだ。

 

これがどうも何だか、物足りない。年齢を重ねるほどに、そう感じられて来るもののようだ。

 

幸せとはそもそもが退屈の、言わば親戚であってこれは仕方ないのだが、仕方ないと言われても困る。どうか、こうか、仕方はあるだろう。あるはずだ。あるに違いない。そこで、カルチャー教室が盛況となる。

 

学校の勉強を、ほどほどに嫌い、ほどほどにやっつけたからこそ、また社会人になってからも、ほどほどの知的好奇心を持って小説やら学術書やらを読んでみたりしたからこそ、幸せな人生を築いて来ることができたのだ。それを、中高年になって今更わざわざ、勉強したくて教室に通う。短歌を詠もう講座、エッセイを書こう講座、江戸歌舞伎を見直そう講座、漢詩に親しもう講座などなど、そういった各教室がいずれも大人気だ。現に、私もそうだ。通っているのは、純粋理性批判を読もう講座だ。

 

人は教室によって育ち、教室に回帰するものらしい。何しろ勉強したくて通うのだから、若い頃とは違う。意欲が情熱が向上心が違う。

 

だが、ああしかし、知力体力が違う。残された時間が違う。

 

もはや手遅れだ。そう言っては失礼だが客観的に見て、手遅れだ。若い頃にもっと勉強しておけば良かったものを。本人が誰よりもよくそれを感じているのだ。この、後悔と諦念とが入り混じってほろ苦い、或る種の感傷を味わいたくて、人はカルチャー教室に通うのだろう。現に、私もそうだ。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「喧嘩」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/8/6 12:14
スニペット「駅」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「駅」です。

 

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草に埋もれたような駅である。

 

薄いコンクリート壁で、屋根と、三方を囲んでちんまりとした空間は、段ボール箱を置いておきましたというほどの印象を与える。据付けのベンチの代りに、小学校の教室ででも使いそうな木の椅子が二つ、飴色に沈んで並んでいる。ひょっとして鉄道会社が用意したのではなく誰かが勝手に持って来た椅子かも知れない。

 

看板を見れば「比野記ヶ根 ひのきがね」と書いてある。比野記は檜だろう。かつては堂々たる檜が近くにでもあったらしいことを思わせるが、今それは跡形もない。随分と立派な名のついた比野記ヶ根は、これ以上は無人駅になれないほどの無人駅となって、草に埋もれている。

 

そんな駅でも、駅は駅で、ごくたまには利用客があるのには違いない。ところがそれが、ちょっと疑わしい。

 

一両ワンマン運転のヂーゼル車は、ごとごととやって来る。段ボール箱的なる駅舎には誰もいない。

 

運転手は、ひのきがねえ、ひのきがねえ、と、ぼそり倦怠大権現とでもいった趣の声を車内マイクに吹く。降りようと立上がる乗客もない。

 

停留せずに、ヂーゼル車はごとごとと去る。

 

たとえば、ここ最近一ヶ月の間にただの一度でも、比野記ヶ根から乗ったり比野記ヶ根に降りたりした人がありますか、と運転手に訊ねてみたら果してどんなものだろうか。さあ、ないようですなと答えて、質問者の予期するところを満足させてくれるに違いない。一ヶ月を半年間に延長する。さあないようですな。満足。

 

それは憶測に過ぎないことであるけれども、どうもそのように思われる駅である。

 

こんな比野記ヶ根にもついに、利用客が現れた。或る夏の日の、暑い昼間のことである。

 

一両ワンマン運転のヂーゼル車は、ごとごととやって来る。段ボール箱的なる駅舎には誰もいない。誰もいないのだが、何かがいる。

 

獣がいる。よく見てみればどうも、たぬきである。行儀よく、と言ってもそれは椅子にではなく床にであるが、ちょこなんと座っている。

 

停留せずに、ヂーゼル車はごとごとと去る。

 

たぬきはそれを見送っている。たぬきはどんな顔をしたか、人間にはたぬきの表情は理解できないが何かの表情をしたかも知れない。運転手の伊東さんはそのとき、もし、車を停めてドアを開けてやっていたらと、いくぶんか後悔に似た感傷にしばし襲われた。

 

 

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この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「教室」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載