• hirano関数
  • 日付を渡すと、ブログ記事すなわち可変長文字列を返す関数です。ただし、動作が安定せず、おもしろい可変長文字列の生成に失敗することがあります。
  • この投稿者の記事(437)
  • tanaka@梅干し
  • 梅干しは煮物、揚げ物、焼き物。薬膳にも毒にもなる。バリエーションがきく食べ物だとおもいませんか?煮物、揚げ物、焼き物のようなブログを書いていきたいと思います。
  • この投稿者の記事(11)
hirano関数@2014/5/23 11:26
スニペット「ステーション」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「ステーション」です。

 

****

 

なぜ文房具がステーショナリーなのだかまるで見当もつかない。なぜそんな、駅みたいに呼ぶのか。船橋耕四郎は、どうも納得が行かないと思っている。

 

気になって辞書を引けば、駅らしいステーショナリーはステーショナリーでまた別に、あるそうだ。駅的なるステーショナリーは形容詞であって、静止とか固定とか常駐とか、何でもどっしり動かないというような意味合いだと言う。それならたいへんよく分かる。駅とはまさにそのような場だ。新橋ステーションという場がどっしりあってそれは動かず、動くのは、そこへやって来る陸蒸気や人々や人力車のほうなのだ。

 

新橋ステーションは、その光栄ある立場を、大正の頃に出現した東京駅に奪われ、新橋は汐留となりまた同時に烏森が新橋となって、往年の新橋ステーションは現在の新橋駅とは別物である、という紆余曲折の動きはあるものの、それは時代の変遷ということであって、駅自身がとことこ動いたわけではない。駅はどっしり動かず、動くのは時代なのだ。

 

そちらのステーショナリーはよく分かる。分からないのが文房具のステーショナリーだ。前者が a で、後者が e だ。そこが違う。或いはそこだけしか違わない。そうしてステーショナリーは文房具である。全くわけが分からない。文房具に限らず便箋をもステーショナリーは含んでいる。文房具と便箋は当然に仲良しだろうから、別にそこに不審はない。しかしステーショナリーは不審である。

 

あんまり不思議がって、ステーショナリーとは何だ、ステーショナリーとは一体どういうことだ、と考えたものだから船橋はつい脳が滑って、文房とは何だ、とまで悩み始めてしまった。何だ文房とは。

 

動物園には動物がいる。植物園には植物が生えている。何も変なことはない。当り前だ。しかし、水族館には水族がいる、となった途端に首をひねることになる。水族って何。少なくとも船橋は、人生を四十年ほど過ごして来て、水族なるものに出会った憶えは一度もない。クジラなら知っている。ジンベエサメも知っている。まぐろはたまに喰う。わかめは日常的に喰う。えびはアレルギーだから決して喰わない。しかし、水族にはとんと馴染みがない。

 

この水族に、文房はよく似ている。房と言うくらいだから部屋で、何か書き物仕事をする部屋というくらいの意味なのだろうが、少なくとも船橋は、そんな部屋に入ったことも、そういう部屋を見たことさえもない。おおそう言えば、物書き業の友人が船橋にはいる。作家として大して有名でもないが、糊口をしのぐ程度の収入はあって物書き一本でやって行けているらしい。立派なものだと思う。

 

その友人の書斎を訪れたことならある。書斎らしい書斎で、ちょっと笑ってしまうほど書斎だった。志賀直哉とか谷崎潤一郎とかいった小説家の写真に見るような、本当にあんな感じで、本がうず高く積み上がっていた。感動のあまり思わず、友人を目の前にして、へえええ作家みたいな書斎じゃないか、と口走ったことを船橋は思い出した。

 

船橋自身は、書斎などという物々しい部屋は持っていない。家族四人、手狭ながらも、格安の値段で確保することに成功した我が家である。書斎なんて贅沢の余地はない。元来その願望は船橋にはない。

 

書斎さえないのだから、文房なんてあるはずもない。寝室で寝具を使うことならある。少なくとも船橋は、毎日毎日、寝ずにはいられない。しかし、文房に座り込んで、文房のための具を取扱った経験は絶無だ。

 

そこまで考えて船橋はハッと我に返った。これはちょっと考え過ぎである。いちいち文房具まで疑っていては、そつなく人生を送ってゆくにおいて支障がある。文房具は構わん。だがしかし、返す返すも、ステーショナリーは納得できない。

 

下の娘の利奈が、上の娘の沙弥と何やらお喋りしている。いま沙弥は高校一年、利奈は小学六年である。利奈は十二歳の女の子、まさにお年頃というお年頃の娘だ。化粧に興味を持ち出したり、芸能人に夢中になったり、やたらに派手派手しい文房具を集めまくったり、するお年頃だ。船橋は、二人の娘のあまりよく聞取れないお喋りを、聞くともなく聞いていた。

 

利奈が「ステショ」なる変な単語を発したのが船橋の耳に飛び込んだ。

 

船橋には、何のことだかすぐに分かった。たった今まで巡らしていたステーショナリーに対する疑いも悩みも、船橋はたちまち放り出してしまって、利奈は可愛いことを言うなあ、と目を細めた。

 

 

****

 

この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「便箋」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/5/21 11:36
スニペット「天国」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「天国」です。

 

****

 

天国とはどんな世界だろうか。手当り次第にいろいろな人に訊ねてみた。何しろそれは誰も知らないことである。ゆえに、誰でも気軽に答えることが可能な問いである。

 

重里さんはこんな風に答えてくれた。

 

「天国って、いっぱいあると思うのね。日本人専門の天国とか、キリスト教徒専門の天国とか、イスラム専門の天国とか、共産主義者専門の天国とか、ルワンダのフツ族専門の天国とかね。宗教によって浄土と呼んだりヘヴンと呼んだりするのは、ただ単に呼び方の違いってだけでしょう。そうすると、それって結局、この世にいろんな国があっていろんな文化圏があっていろんな人々が暮していて、それと同じってことになるじゃない。だからね、もし天国に行っても案外、誰もが普通にしているんだろうって思うのね。もう死んじゃってることにも気付かないでね」

 

谷増さんはこんな風に答えてくれた。

 

「私はクリスチャンですから、天国はあるかないかと訊かれたら、ある、とすぐに答えます。どこにあるのかと訊かれたら、神のいらっしゃるところに、と答えます。ずるい答え方に聞こえるかも知れませんけれど、それなら、質問をするほうだって反則みたいなものでしょう。私は神を信じます。天国に行きたいから信じる、といったような筋のことではありません。神が私を信じさせて下さるから、信じるのです」

 

来女木さんはこんな風に答えてくれた。

 

「絵画でも文学でも、天国を題材にした作品はたくさんありますな。キリスト教の天国を念頭に置いて言っているのですがね。私も若い頃、あの小難しいダンテの『神曲』の、地獄篇なんか単純な興味だけでちらりと読んでみて、本当にチラ読みだけで終ったもんですがね。私が察するのはですな、作品を創った人の心情です。信仰心がまずあるのは当然として、作品に取り掛かるでしょう、するとですな、来る日も来る日もそうしていると、天国の実在感が次第に次第に深まるのではありませんかな。四六時中、天国のことばかり考えている訳ですからな。ああした芸術家たちの、頭の中にか、胸の内にか、そんなことはどっちでも構わんが、少なくとも本人にとって、天国は確固として実在するに至ったに違いない、とまあこう思いますな」

 

純浦さんはこんな風に答えてくれた。

 

「やっぱりまず、イスラム圏のテロリストのことを考えてしまいますね。聖なる戦いと信じて、実行すれば天国に行けると信じて、命を棄てるわけでしょう。それが犯罪であるはずがない、勇気ある立派な殉教者という訳です。それで死んでみたら、天国がじつはなかった。それじゃあんまりです。だから、テロとはおよそ最も始末の悪い犯罪ですが、天国とは、そういう種類の犯罪者を収監する大監獄である、と考えてみれば良いんじゃないでしょうか」

 

若海さんはこんな風に答えてくれた。

 

「あたしはもうひたすら単純に、こう思います。天国は、幽霊みたいなものだって。存在しないよりは、存在してくれているほうがずっと面白いって。ただ、それを振りかざして人に迷惑をかける種類の人がいるでしょう。そういう人を見るとつい、あんたが地獄に落ちろって思っちゃう」

 

物野部さんはこんな風に答えてくれた。

 

「天国はこの地上で、たとえば日本で、とっくに実現していると思いますね。これは皮肉ですが。飲み水も食べ物もすぐ手に入り、奴隷労働を強制されることもなく、どうしても暮しに困れば政府が助けてくれて、漫画でもテレビでも何でも娯楽はたっぷり提供されている。例外的な境遇の人はむろんいるでしょう、しかし一般的に言ってです。じつに夢のようじゃありませんか。これが天国に等しい世界でなくて何だ。だとするとですよ、天国に行った人がどんな暮しをしているか、察しが付きます。つまり、これ以上何を望むのかという環境にいるのにもかかわらず、まだ何かを望んで意外に不満らしく、あまり幸せではない」

 

倉知さんはこんな風に答えてくれた。

 

「天の国てえくらいだから、空の上にあるんだろう。空の上にゃ宇宙ステーションがあるって訳だが、その、もっと上だ。だが宇宙に出ちまえば上も下も右左もありゃしねえから、つまり、宇宙の果てってところか。で、宇宙に果てはあるのか、って話になるわな。難しい話は俺は知らん。学者だってよく分からんから研究して、毎日ああだこうだ議論してるんだろう。宇宙に果てはあるのかないのか、そいつは、天国はあるのかないのかって話にそっくりじゃねえか」

 

 

****

 

この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「ステーション」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/5/20 12:05
スニペット「垂直」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「垂直」です。

 

****

 

切り立った崖がある。切り立ったとは何気なく使われるために陳腐だがよく考えてみればうまい言い方だ。雲つく巨人が神通力の斧でもって山を切る。巨大な崖ができる。そうした崖だという表現だろう。座り込んで長電話していたのをようやく切って立ち上がったのではない。

 

切り立った崖が目の前にある。私はついと崖を見上げる。巨大だ。そして垂直だ。もちろん数学の抽象図形みたいに厳密に垂直であるはずもないが、見ているとまさしく垂直に、ぐんぐん天へ吸込まれてゆくように思える。眩暈がする。

 

この崖の上に一体何があるのだろう、と考える。考えても仕方がないが、考えても仕方のないことを考えるのは心が躍る。わくわくする。いかにも冒険的なものがありそうではないか。私は自分のことを、男的なるものも女的なるものも両方備えたようなところのある性格だと思っているが、冒険! 冒険と来れば、私の心臓の、男的なる部分が熱く脈打つ。或いはそれは、程度の差こそあれ、誰だって同じなのではないだろうか。

 

目もくらむほどの崖、その上の新たな地平。そこに広がる世界とは、言わば、天国みたいなものだ。誰も見たことのない、遥か空の彼方の世界。誰かが見たことは当然、あるのだろうが、私が見てない。だから誰も見たことないも同然だ。新たなる世界を、誰か他の奴が見たところで、ちっとも面白くも何ともないではないか。この私自身が、そこに歩みを記すのが面白いに決まっている。

 

また私は崖を見上げる。遥かに眺めるせいか、まるで崖の表面が真っ平らなように見える。もちろんそんなはずはなく近寄って見れば凸凹なのだが、そう見える。本当に巨人の斧で断ち切られて出来た崖かも知れない。

 

私にこの崖が、登れるだろうか。

 

何もこうした経験が初めてな訳でもなく、登ってみせるという自信だって充分にあるが、自信というものは、唯だあるだけのものに過ぎない。自信があるとかないとかいうことと、実際に成功するとか失敗するとかいうことは、客観的には関係がない。

 

自信がないからこそ慎重に物事を進める結果、うまく行くということだってある。その逆に、過信ゆえの失敗だってある。だから、関係がないと敢えて思っておくくらいが妥当だろう、というのが私の行き方、或いは生き方だ。男的女的のことで言うならばこれは、私の女的なる部分、堅実性とか安定性といった性格に根差したことかも知れない。

 

意を決して私は壁を登り始めた。決して急がない。急いでも碌なことはない。ゆっくりじっくり、登る。壁の感触を確かめてゆくように少しずつ登る。

 

二時間ほども経った頃だろうか。私はちょっと疲労した。だが体調に全く問題はない。決して急がない。

 

さらにまた二時間ほど。まだまだ私は登る。すると小雨が降り出した。

 

これは私には嬉しい。濡れて滑りやすく、危険が増すのではないかと思うかも知れないが、私にとっては全くそんなことはない。私は雨が好きだ。雨は私の活力の源になってくれる。雨に濡れ始めた私の身体から、疲労がすっと消えてゆくような感覚さえした。

 

まだまだ私は登る。数時間かけて登ってきた軌跡、ぬらぬらと私の体液で光る軌跡が、コンクリートの壁に艶めいている。それはとても美しく見える。

 

 

****

 

この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「天国」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載

hirano関数@2014/5/19 14:39
スニペット「包丁」

こんにちは、関数です。

今回のスニペットは「包丁」です。

 

****

 

榎並節子は茄子に包丁を入れるときの、ガムテープに指を滑らせて感じる引掛かりに似た、感触が好きである。感触が好きだから茄子を切るわけではないが、節子は茄子を切っている。

 

いややはり、感触が好きだから茄子を切っているのかも知れない。この世界には胡瓜も玉葱も人参も蕗もあって、そうして今は茄子を選んでいる、ということの中には、茄子を切りたい気持ちが奥底のほうで幽かに蠢いたということがあるに違いない。節子は茄子を切っている。節子と茄子と並べて書いてみると何だか読みにくい。節子が茄子に切られているように錯覚してしまうが、仕方がない。茄子のせいで節子の名前が変わるはずもない。

 

「お姉ちゃんミッチー見なかった」

 

「見てない」

 

「どこにいるか知らない」

 

「知らない。まず押入れは。あとはベッドの下」

 

包丁を捌きながら節子は、大声で喚いている葉子に答えた。二つ目の茄子が乱切りに片付いた。三つ目の茄子を攻略しにかかる。茄子はぜんぶで五つである。

 

五つとももう蔕を落してある。勿体ないという思いから、節子はなるべくぎりぎりのところで蔕を切るようにしている。葉子はミッチーがいないと騒いでいる。茄子の肌の、蔕に隠れていた部分は白くて、茄子紺と溶け合うところの色合いがきれいだと節子は思う。節子は茄子を切るのも見るのも好きである。

 

「ねえ鈴つけようよミッチーに」

 

「駄目よ、厭がると思うよ」

 

「嫌がるかどうか分からないよ。気に入るかも」

 

「本当は首輪もつけてやりたくないのよね、それだけは仕方ないけど。葉子あんた、首輪と鈴つけられたら厭じゃない」

 

「あたしミッチーじゃないもの」

 

「ミッチーもあんたも生き物よ」

 

茄子が五つとも乱切りに片付いた。乱切りと言っても人さまざまの作法があろうが、節子の場合は、たっぷりした感じに切る。つまり蔕に対しての平行に沿う切り方を軽視して垂直に沿う切り方を重視する。

 

そのほうが、茄子が、栄養とかダシとかをよく吸い込んでくれる気がする。節子はそう思っている。葉子はミッチー鈴装備の説を、それ以上押して来るのを止めた。なおミッチーとは、道で拾われたから、というじつに安直で、あまりにも安直なために斬新な命名である。命名したのは葉子である。半年前に葉子が拾って来た。

 

「ねえ最近あたし、ミッチーに嫌われてない」

 

「私に訊かれてもね。ミッチーに訊いてごらん」

 

「だって嫌われてる気がするの」

 

「あんまり構いすぎるからじゃないの。ミッチーは独りでいるのが好きなのよ、猫だもの」

 

「じゃあやっぱり。嫌われてるんだ」

 

「でも家族だからね。好き嫌いはあっても、それなりに付き合ってくれるでしょう。ミッチーはいい子よ」

 

答えながら節子は、ばらばらと茄子の欠片を鍋に放り込んでガラス蓋をした。たちまちガラスが曇ってたちまち露になって、雨降る車のフロントガラスみたいになった。葉子は節子の年七つ下で、小学二年生になっている。

 

姉妹でこう年が離れていると、しかも妹のほうがまだ幼いと、それは姉妹よりも母子の間柄に似る。母親はいなくなってしまったから、尚更そうなる。離婚があったのは二年前のことで、姉妹二人は父親のもとにあることになった。葉子は再びミッチーを捜索しに行ってしまった。

 

大小の茄子の欠片が、さほど大きくもない鍋の中で、生き物みたいに揺れている。

 

 

****

 

この短い話はこれでおしまいですが、

しかし言語の鎖は連なる。

次回のスニペットは「垂直」でお送りします。

 

※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載